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2022年6月29日 (水)

新装なった井上博道記念館へ

写真家の井上博道さんの記念館が6月28日オープンされましたので早速訪ねてきました。

学園前の中登美ヶ丘、ならやま大通りに面した閑静な場所にある広いご自宅を改装されてオープンされました。

庭を通って、ギャラリーへ。

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奥様の井上千鶴さんに写真撮影OKもらいましたので、スナップです。(画像をクリックすると拡大します)

亡くなられてもう10年とか。井上博道さんのお別れの会2013年1月20日のページ⇒http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-dc1f.html

14万枚ある写真やネガの整理に7年もかかったそうです。

焼き付けられたばかりの写真はとてもみずみずしく、撮ったばかりのように見受けられます。

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2階の書斎にも案内されました。

2階から見たギャラリー。正面の写真は東大寺大佛様の頭の上からの大きな写真です。

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書斎の机。

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井上博道先生。

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4Kといわれていましたが、奈良のあちこちの素晴らしい写真がつぎつぎとスライド上映されましたので、しばらくソファに座って釘付けになりました。

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愛用されていた重厚なカメラの数々も展示されていました。「寫眞至上主義 博道組」の力強い看板。

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そして1階のティールーム(ランチもありました)でお茶を頂き、社長でお嬢さんの林田千華さんともご一緒にお話しできました。

素晴らしい記念館だと思います。つぎつぎ企画を準備されているようで楽しみです。ありがとうございました。

井上博道記念館のホームページです⇒https://www.asa-ban.com/contents/him

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毎日新聞奈良版 2022.6.28

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2022年6月17日 (金)

6月28日、井上博道記念館オープン

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写真家の井上博道記念館が6月28日、奈良市学園前、中登美ヶ丘にオープンするとの案内をいただきました。

ギャラリーの開館は11時から17時。

休館日は、毎週月曜日、火曜日。年末年始とのことです。

カフェショップも同時間、開かれるとのこと。11時30分から14時30分までダイニングもあるということです。

入館料は無料。

ホームページの案内です⇒http://www.asa-ban.com/contents/

 

井上博道
昭和6年 兵庫県の日本海側、蟹で有名な香住の禅寺の長男として生まれました。
海と山の間に位置する所で自然と文化の織りなす美しい日本の風景、芸術を表現するようになりました。
以来81歳で他界する迄、60年間カメラと共に生きて参りました。
何処へ行く時も何を見ても、何時も写真一途の人でした。

多くの人々に愛され自身も人、動物、花、昆虫、鳥、生きる物全てを慈しむ人でした。
ただ、被写体を定め、レンズを向けるその時は、別人のように厳しい眼差しであった事も思い出されます。

司馬遼太郎氏を兄のように慕い産経新聞社の写真部で社会を見、大阪芸術大写真学科で教壇に立ち、
定年を待たずに自由な創作活動を始めました。
ライフワークの日本の伝統美と四季の織りなす風景を独自の感性で表現することに注力しました。

2012年10月5日 トンネルの映像を撮っている中、倒れました。

本人はもう居ませんが、5万点以上ものフィルムを残しました。

 

 

 

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お元気だった頃、奥様とご一緒におられ、会合などでご一緒でした。

幡井上企画を立ち上げられた頃、「幡」を高く掲げて進んでいかないとね、とおっしゃっていた言葉が印象に残ります。

万葉集の写真集、奈良のあちこちの写真集、司馬遼太郎氏とともに出された初期の写真集など貴重です。

記念館では企画展がひらかれていかれるご様子、楽しみにしております。

2022年6月14日 (火)

美ビット見て歩き

毎月、奈良新聞で楽しみにしている川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは、いま、京都国立近代美術館で開かれている、鏑木清方展です。京都では45年ぶり、没後50年ということです。美人画で有名です。この機会にぜひいきたいものです。7月10日まで。

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展覧会のホームページです⇒https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2022/448.html

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *106 川嶌一穂

 

京都国立近代美術館「没後50年鏑木清方展」

 

写真 京都展に先立って開催された東京国立近代美術館での「鏑木清方展」入り口にて(著者撮影)

 

 齢とともに集中力と持続力が衰えて、最近は展覧会も、会場に入ってまず出口まで歩き、どこに何ががあるかを大まかに把握してから、見たい作品まで戻って見て行くことが多い。

 先月、京都展に先立って開催された東京展を訪れた時もそうしたのだが、正解だった。一作一作じっくり拝見したい絵が、百点近くも集まっていたのだ。はじめて見る作品も多く、最初から順番に全部を詳しく見るだけの体力はなかっただろう。
 今回一番のお目当は『築地明石町』。何とこの鏑木清方(かぶらき・きよかた。明治十一年<1878>〜昭和四十七年<1972>)畢生の名作は、二度も行方不明になったという。戦後の十年間と、そして昭和五十年(1975)からの四十四年間。知らなかった!私は学生時代に東京で見て、ひと目で魅せられていたので、前回から少なくとも四十年以上の歳月が流れたことになる。

 若い頃好きだった絵に再会して、昔ほど感激しないこともあるが、本作は別格で、ますます輝きを増して迫ってきた。
 日本人には珍しい長身の女性のすっきりとした立ち姿。古風でいてモダンなヘアスタイルの、美しく、勝気そうな女性が、ニュアンスのある水浅葱(みずあさぎ)色の小紋を着ている。羽織の黒と、口紅と、わずかに覗く羽織の裏地と下駄の鼻緒の紅色が全体を引き締めている。関西の「はんなり」とはまた違う、思い切りのいい江戸の粋が匂い立つ。

 清方自身はこの絵を「肌さむい秋、あるかなきかの船影、うらがれた朝顔、夜会結びの人の立姿(『紫陽花舎随筆』講談社文芸文庫)と記している。築地界隈でも明石町は外国人居留地で、異国情緒あふれる街だった。画面右下の朝顔の絡む柵も、異人館の広い庭を囲むペンキ塗りの柵だという。作者は大好きだったハイカラなこの街に主人公を立たせた。

 しかしこの絵が描かれた昭和二年(1927)に、もうその面影はなかった。四年前の関東大震災で、自宅の被災は免れたものの、出世作数点が失われる。何よりも幼い頃から暮らした下町全体が壊滅的な被害を受けた。加えて、大震災の二年前に祖母を、大震災の三年後に母を亡くしている。

 本作は、昭和五年(1930)に描かれた『新富町』、『浜町河岸』と合わせて三部作と考えられ、表装も統一されているが、それが清方の発案だったかどうかは不明である(展覧会『図録』解説)。

 『浜町河岸』では、清方が明治末に住んだ日本橋の浜町風景を背景に、踊りの稽古帰りの町娘が描かれる。画中の火の見櫓も大震災で消滅した。
『新富町』では、東京一の劇場と言われながら、これも大震災で廃座となった新富座を背景に、蛇の目傘をさした新富芸者が描かれた。飛び切りの美人と、そのとんでもなくお洒落な着物に目を奪われるが、三作とも絵のタイトルは地名である。当時すでに失われた明治の街の、失われた明治の暮らしが描かれたのだ。確実に一つの時代が終わった。

考えてみれば、私もその一員である団塊の世代の親たち、つまり大正末年から昭和はじめに生まれた世代が、かろうじて清方の愛した明治という時代の片鱗を、暮らしの中で体験した最後ではないだろうか。

会場で、また帰宅後に図録を見ながら、つい亡くなった父母のことを思い出した。結婚式に自分の髪で高島田を結った母、昭和の三十年代まで普段着に着物を着ていた割烹着姿の母、帰宅すると祖父の形見の着物に着替えていた父が帯を締めるきゅっきゅという音。お正月やひな祭りなどの行事を欠かさなかった暮らし。懐かしくてたまらない。

 清方はまた随筆の名手でもある。昔求めた『随筆集』(岩波文庫)を、たまに本棚から取り出して見ることもあったのに、今回はじめて知ったのだが、清方の父は幕末の戯作者で、明治初年に「やまと新聞」(現・毎日新聞)を経営した條野採菊(1832〜1902)である。
幼いころから文学や芝居が身近にある環境に育ったことが、清方に『三遊亭円朝像(重要文化財)』、『慶喜恭順』、『小説家と挿絵画家』など、人物造型の確かな肖像画を描かせたのだろう。

今回は東京展を拝見しただけで、京都展は未見だが、美術館のホームページによれば、東京展には出なかった三部作の下絵や、長女をモデルにしたと思われる『水汲(みずくみ)』も出るようで、楽しみだ。
館内のカフェで、疎水を眺めながらお茶を飲むこともできる。雨の晴れ間にぜひお出かけください。さまざまの事思い出す一日になるでしょう。

 

=次回は7月8日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ
京都国立近代美術館(岡崎公園内) 京都市左京区岡崎円勝寺町26−1。電話075(761)4111。近鉄京都線「竹田駅」で京都市営地下鉄に乗り換え、「烏丸御池駅」下車。同駅で京都市営地下鉄東西線に乗り換え、「東山駅」下車。地上へ出て、少し東に歩くと疎水があるので、その手前で左折し、疎水沿いの道をゆっくり歩いて10分。会期は、7月10日(日)まで。月曜日休館。会期中に一部展示替えあり。https://www.momak.go.jp

 

2022年5月15日 (日)

美ビット見て歩き105 再訪、三陸鉄道全線走破!!

毎月楽しみにしている、奈良新聞連載の川嶌一穂さんの「美ビット見て歩き」、今月は三陸鉄道全線走破!!です。

先日、衛星放送の「飲み鉄」で、三陸鉄道の旅を見たばかりです。また長坂先生らの「復興・陸前高田ゼロからのまちづくり」を読んだばかりです。

川嶌さんは東京出発の1泊2日の旅で、以前も行かれた三陸鉄道、今回は全線の旅をレポートされています。

まだ行ったことはありませんので、行ってみて初めてわかることも多いのだと思いながら読ませていただきました。

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以前おみやげにいただいた宮古、久慈の行き先プレートのある三陸鉄道のキーホールダー。

ボタンを押すとヘッドランプが光るというすぐれもの。

奈良新聞、5月13日より。(画像はクリックすると拡大します)

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *105 川嶌一穂

 

三陸鉄道再訪

 

写真 「さあ、出発!」盛駅で三陸鉄道南リアス線列車に乗車

 

 まあ、出発までこんなにヤキモキした旅も珍しい。今年の3月上旬、「4月17日出発 三陸鉄道全線走破!2日間」というツアーに申し込んだ。1日目は東京駅から一ノ関駅(岩手県)まで東北新幹線に乗り、バスで移動。三陸鉄道始発駅・盛(さかり)駅(岩手県大船渡市)から乗車して北上する。2時間半走って、その日は宮古駅で下車。翌日、再び宮古駅から乗車して、2時間近く走る。終点の久慈駅で下車し、バスで盛岡駅まで移動。新幹線に乗って東京まで帰るという「乗り鉄」御用達の旅程だ。

そこに、震度6強を観測した3月16日夜の福島県沖地震である。東北新幹線は車両脱線を含め、高架橋や架線設備の損傷が1千箇所にも及び、福島―仙台間は4月中旬ごろに運転再開の見通し、と発表された。これは駄目だ、と諦めていたところ、出発の1週間前に旅行会社から「14日に新幹線全線運転再開との発表があったので催行決定。ただしダイヤ未確定につき、乗車便は確定次第電話連絡」という通知が来た。

 やれやれ一安心、と思っていたら、出発の3日前に電話があった。「新幹線の乗車便は決まったが、減速・減便のため、予定していた<奇跡の一本松>と宮古の魚菜市場見学は無し。三陸鉄道も貸切りではなく自由席になるが、参加されますか?」それでは東北新幹線と三陸鉄道にただ乗るだけという強行軍になる、と一瞬ひるんだが、天気はよさそうだし、えいやっ、とばかりに参加を決めた。

 当時この欄でもご紹介したように、私がはじめて三陸鉄道に乗ったのは8年前の平成26年。明らかに、その前年に大ヒットしたNHK連続テレビ小説「あまちゃん」に誘われた旅だった。岩手県の三陸海岸沿いを縦貫する三陸鉄道が、みずからも甚大な被害を受けながら、震災発生後わずか5日後に一部区間で運転を再開したことを、私もあのドラマがきっかけとなって知った。

平成26年、大震災後3年にして三陸鉄道は全線運転再開する。さらに平成31年、別々だった北リアス線と南リアス線を埋める宮古―釜石間がJR東日本から移管されて、全長163kmという日本一長い第三セクター鉄道路線となった。
しかしその後も三陸は災害に見舞われ続ける。令和元年には台風19号の豪雨被害で、一時は全線の7割が運休に追い込まれた。ようやく全線が復旧したのが、令和2年3月。まさにその時、コロナ禍が追い討ちをかけるように襲いかかった。

 実際、今回乗ってみて、8年前に比べてどことなく寂しい感じがした。貸切りではなく自由席への乗車に変更になったので、定員40人の車両でツアー参加者30人全員が座れるかどうか心配していたが、その心配は杞憂に終わった。常に一般乗客が10人以内だったのだ。
 前回は三陸鉄道の一部区間に乗車しただけなので単純に比較はできないが、周辺に人の気配のない駅が多くなったと感じた。安全な高台に住居を移して駅から遠くなり、鉄道を利用しにくくなったこと。復興道路が完成したので、自動車に乗る人が増えたこと。コロナ禍で観光客が来ないなど、理由は一つではないだろう。

 しかし8年前は、目にも鮮やかな大漁旗を、駅や沿線で振る人がたくさんいた。今考えればボランティアでやって下さっていたのだろう。今回の旅では、2日目にホテルを出発する時に、従業員がお一人で旗を振って見送って下さっただけ。無理もない。立ち上がっても、立ち上がっても、さらなる災害が襲うというこの11年だったのだから。

 「鉄道が廃止されて栄えた街はない」。大震災被災時の三陸鉄道社長・望月さんの持論である。地方の交通インフラを地方に任せていていいものだろうか。効率だけを考えて人は生きていけるのだろうか。災害が頻発する日本に生きる素人の素朴な疑問だ。都会が地方を支えているのではない。水、食料、エネルギーその他大切なものについては、そのほとんどを地方が支えている。

 4月のはじめに桜が散ってしまい、すでにツツジの咲く季節となった東京から出発した今回、思いがけず桜をもう一度見ることができた。銀色の和毛に包まれて芽吹きはじめた雑木林の中に咲く山桜やコブシの花。薄絹を広げたような棚づくりの桃や梨の花。夢のような車窓の春の風景がまだ眼裏に残っている。

 帰りに寄った道の駅で買ったメカブは翌日ぽん酢で、ウルイという山菜はさっと茹でて酢味噌で食べた。二つともぬめっとした春の美味。食後は、三陸鉄道の駅で買った、パッケージに黒い鹿のキャラクターが描かれた「黒字化をめざす三鉄クロジカせんべい」!
 宮藤官九郎さん、そろそろ「あまちゃん」続編をお願いします。

 

=次回は6月10日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ
三陸鉄道株式会社旅客営業部 岩手県宮古市宮町1丁目1−80 宮古駅内。電話0193(62)7000。
https://www.sanrikutetsudou.com/

「黒字化をめざす三鉄クロジカせんべい」等の三鉄オリジナル商品が返礼品として送られて来るふるさと納税については、HPをご覧下さい。

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以前の美ビット見て歩き、当ブログに載っています。

8年前の三陸鉄道に乗られたときの美ビット見て歩き⇒http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-ee31.html

『東日本大震災の記録と津波の災害史』⇒http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-e8ec.html

2022年4月 9日 (土)

美ビット見て歩き 104

いつも楽しみにしている、川嶌一穂さんの美ビット見て歩きが奈良新聞4月8日に載っています。

伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄と天台宗のすべて」についてです。

「延暦寺からはその後、道元、法然、親鸞、日蓮ら日本の仏教史を書き換える革新的な指導者が輩出した。なぜか?」

と書かれているように、大きな影響をもたらした人です。

4月12日から京都国立博物館において特別展が開かれるということです。

 

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *104 川嶌一穂

 

伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄と天台宗のすべて」

 

写真 杉木立ちの中の比叡山延暦寺根本中堂(2016年6月、同行の友人撮影)

 

 日本天台宗の開祖・最澄は、天平神護二(766)年、あるいは神護景曇元(767)年、近江国(滋賀県大津市)に生まれ、弘仁十三(822)年、比叡山にて入寂した。今年令和四年は千二百年大遠忌にあたる。

 延暦四(785)年、最澄は東大寺戒壇院で受戒して正式の僧になったが、三か月後に比叡山に入ってしまう。山中での修行が十年になる頃、宮中に出入りできる内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)の一人に任命された。

 奈良仏教に批判的だった桓武天皇の後援を得て、最澄は遣唐還学生(げんがくしょう・公費短期留学生)に任命される。延暦二十二(803)年、遣唐使船に乗船したが、暴風雨に遭って引き返し、再出発を九州で待つことになった。

 翌年、船団の第二船に乗船したが、第一船に正式の僧になったばかりの空海が留学生(るがくしょう・私費長期留学生)として乗っていた。後に真言宗の開祖となる空海はこのとき数え年三十一歳。どのようにして遣唐使の一員になれたかは分かっていない。前年の嵐が、空海の入唐に幸いしたと言えるだろう。

最澄は、入唐後九か月にわたり沿岸部の江南地方に滞在し、天台山で大乗仏教の戒律を受け、また龍興寺において大乗菩薩戒を受けることができた。

 一方空海は首都・長安に入り、真言密教第七祖・青龍寺の恵果の弟子となった。滞在中、多数の経典、書籍、仏具を購入して二年で帰国したが、二十年という留学期間を大幅に縮めて帰国したためすぐには上京せず、太宰府に三年の間留まった。

 空海が請来した文物を朝廷に報告するために作成した目録『弘法大師請来目録』(国宝・後期展示)が東寺に伝わるが、それは最澄の筆になるもので、もとは延暦寺に伝来した。つまり最澄が空海から借りて書写した写本である。

 残念ながら今回の京都展には出ていないが、弟子に宛てた有名な最澄自筆の手紙『久隔帖(きゅうかくじょう)』の文中で、最澄は七歳年下の空海を「大阿闍梨」と呼んで、平出(へいしゅつ・該当する語を次行の頭に置くことで敬意を表すること)している。借用するときに礼を尽くした最澄と、命がけで請来した経典を何度も最澄に貸した空海の二人は、この後に袂を分かつことになる。

 兵庫県一乗寺に伝わった現存最古の肖像画、『最澄像』(国宝・前期展示)は、色彩も美しい平安仏画の傑作で、最澄の厳しくも穏やかな人となりをよく伝えている。

 延暦寺に伝わる『七条刺納袈裟』(国宝・前期展示)は、何と最澄が唐の天台山で、師の行満から相伝した天台宗六祖・湛然の袈裟という。

 国宝の阿弥陀堂で有名な京都市伏見区日野の法界寺から、今回秘仏の『薬師如来立像』(重要文化財)がお出ましになった。最澄自刻の延暦寺根本中堂の本尊の姿に近い像と伝わるが、切金を施した衣紋の装飾がとても美しい。

 岩手県中尊寺の『一切経』(国宝)は、平安貴族の趣味の洗練を今に伝えている。紺紙に金銀字の清衡経が前期に、紺紙に金字の秀衡経が後期に展示される。

 もと長岡京市の長法寺に伝来した『釈迦金棺出現図』(国宝)は、織田信長による比叡山焼き討ちの折に長法寺に移動したという。入棺後に、母の摩耶夫人を慰めるために釈迦が棺から立ち上がる場面を描く。

 延暦寺からはその後、道元、法然、親鸞、日蓮ら日本の仏教史を書き換える革新的な指導者が輩出した。なぜか?

最澄は、中国仏教の伝統を受け継いだ国家仏教としての側面が強い南都仏教と対決して、天台教学を打ち立てた。『般若心経』が説く「是諸法空相」(この世におけるすべての存在するものには実体がない)ではなく、「諸法が実相である」(現象世界が真実のものである)と説くのである。日本人のアニミズム的自然観や山岳信仰を取り入れた「日本型仏教」の誕生だ。

 わたしの乏しい経験だが、海外の旅行先で路傍の草花を眺めると、園芸植物は別として、どこも植物相が日本より貧弱だ。地形、気候、植物が実に多様な日本で暮らしていると、この現象世界が「空(くう)」だとは実感できなかったのではないか。それよりも「山川草木悉皆成仏」という自然観がしっくり来る。だがそれは伝統的仏教からすれば驚くべき変容であった。仏教が「日本型」に変容したのである。

本展は、鎌倉仏教や禅宗にも受け継がれる「日本型仏教」の礎を築いた最澄と、その後の天台宗の歴史を知る貴重な機会だ。

 

=次回は5月13日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

メモ
京都国立博物館 京都市東山区茶屋町527。電話075(525)2473。https://saicho2021-2022.jp/ 近鉄丹波橋駅にて乗換え、京阪電車丹波橋駅から七条駅下車、東へ徒歩7分。会期は、あさって4月12日(火)から5月22日(日)まで(月曜日休館)。一部展示替えあり(文中の「前期」は4月12日〜5月1日。「後期」は5月3日〜22日)。

参考 立川武蔵著『最澄と空海―日本仏教思想の誕生』角川ソフィア文庫。

訂正 前回3月11日付け「春日神霊の旅」展の文中、上段後ろから4行目「雌の白鹿」を「雄の白鹿」に訂正致します。

 

2022年3月15日 (火)

美ビット見て歩き 103

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(画像はクリックすると拡大します)

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毎月、奈良新聞で楽しみにしている川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは、神奈川県金沢文庫特別展、「春日神霊の旅ーー杉本博司 常陸から大和へです。

以前春日大社の展覧会で、常陸から大和への道中のポイントのあちこちを地図で再現されたのを見ました。

ところで最近注目の鎌倉方面です。金沢文庫は行ったことがなく奈良からは遠く感じるのですが、品川駅から京浜急行で快特で33分と聞くとわりあい近く感じます。

 

美ビット見て歩き 私の美術ノート *103 川嶌一穂

 

神奈川県立金沢文庫特別展「春日神霊の旅―杉本博司 常陸から大和へ」

 

写真 春日神鹿像 鎌倉時代 須田悦弘補作(展覧会チラシより)

 

 先日ある展覧会で『春日神霊の旅―杉本博司 常陸から大和へ』というチラシを見つけて、そのあどけないなりに凛とした表情の雄鹿の像に心引かれ、何の予備知識もなく、明るい陽ざしに誘われるようにして、横浜の南、鎌倉の東にある金沢文庫に出かけた。

 副題の「常陸から大和へ」は、春日大社第一殿の祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)が茨城県鹿島神宮から、第二殿の経津主命(ふつぬしのみこと)が千葉県香取神宮から大和へ降臨されたことを言ったものと想像できるが、「杉本博司」はどういう関係だろう。
 世界の海を撮った『海景』シリーズで有名な杉本博司は、1948年生まれ。ニューヨークを拠点に活動する現代美術家であり、日本の古美術収集家でもあるが、そのコレクションの半分は「春日もの」だという。約100点から構成される本展のうち16点が小田原文化財団の所蔵、つまり杉本コレクションであり、今回企画、展示にも携わった。

会場で最初に目に飛び込んで来たのは『特別出品 古作面』(南北朝時代)だ。まだ能面ほど抽象化されていない土俗的で、柔らかい力をたたえた面だ。本展準備中に見つかった本面の裏面に、何と「児屋根命」の墨書があった。天児屋根命(あめのこやねのみこと)は藤原氏の先祖神で、春日大社第三殿の祭神である。杉本は「駆け込み乗車で!顕現された」と語る。

『十一面観音立像』(平安時代)は、前田青邨、白洲正子蔵という来歴を持つ小田原文化財団所蔵の木彫仏。化仏には目鼻がなく、彩色もない素地(きじ)のままの作で、神像と考えられるらしい。十一面観音の姿をした神像?!まさに「神仏習合」ワールドとなったこの会場の象徴的存在だ。

 本展での圧巻は軸装のいわゆる春日曼荼羅で、春日大社、興福寺、奈良博などが所蔵する作が20点以上出ている。春日曼荼羅は、実際の位置関係を思い浮かべながら拝見するのがいつも楽しみだが、主に三つに分類できる。
春日社の景色を描く春日宮曼荼羅、
上半分に春日社を、下半分に興福寺を描く春日社寺曼荼羅、
鹿を描く春日鹿曼荼羅の三系統である。

 杉本の「春日もの」コレクションの出発点となった『春日鹿曼荼羅』(室町時代)の図像は興味深い。繊細な鞍を付けた堂々たる雌の白鹿が、ご神体である鏡を抱いた梛(なぎ)の木の枝を鞍の上に載せている(たいてい鹿曼荼羅の解説は画中の木の枝を「榊」と説明しているが、榊の葉は互生、梛の葉は対生なので、この作品に描かれるのは、今でも春日の山に多い梛の木と思われる)。

その大きな鏡の上に遠景として御蓋山が描かれ、さらにその上に五つの円相が浮かぶ。円相の中は、右から春日大社第一殿の祭神・武甕槌命、第二殿・経津主命、第三殿・天児屋根命、第四殿・比売神(ひめがみ)に若宮を加えた五柱かと思いきや、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩、十一面観音、文殊菩薩の五仏が描かれている。

近代以前の日本人は、何の違和感もなく神仏を二つながら信じていたのだろうか。それとも伝来してから千三百年経っても、仏教には異教的な感じが付きまとったのだろうか。幕末から明治初期にかけて野蛮な廃仏毀釈に走ってしまった近代以降の我々にとっては永遠の謎である。

 写真の『春日神鹿像』(鎌倉時代)は、春日鹿曼荼羅の立体版とも言うべき作。鹿像と樹上の「五髻文殊菩薩掛仏」は杉本コレクションのそれぞれ別の作品で、角と鞍と榊の枝は現代の木彫家・須田悦弘の補作。須田作品が原作の素材、色彩、様式とよく調和して自然に感じられる例だが、補作にはきわめて難しいパランスが要求される。掛仏の吊り金具をそのままにしてあるのは、コレクターとしての杉本の見識の高さだ。

 春日若宮伝来と伝わる『地蔵菩薩立像・神鹿像』(鎌倉時代)は、今回60年ぶりに発見されたとのことだ。総高約23センチメートルという小像ながら、鹿像の彩色が美しく残り、蓮台の上に立たれた少し厳しい表情の菩薩像は、当初の作と思われる精細な金属製光背を伴う。忘れがたい優美な作だ。

会場の金沢(かなざわ)文庫は、隣接する称名寺(しょうみょうじ)の開基・金沢実時(かねさわ・さねとき)の私設文庫だった。金沢氏は北条氏の一族で、北条実時とも称した。鎌倉幕府の滅亡と同時に金沢氏も滅び、日本最古の蔵書印と言われる「金沢文庫」印が押された貴重な典籍もその多くが散逸した。

 帰り道、称名寺の阿字池に尾長鴨が群れ遊び、翡翠が水面低く一直線に飛び去った。

 

=次回は4月8日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ
神奈川県立金沢文庫 神奈川県横浜市金沢区金沢町142。電話045(701)9069。品川駅から京急本線快特に33分乗車、「金沢文庫駅」下車。東口より徒歩10分。会期は3月21日(月・祝)まで(最終日以外の月曜日休館)。
参考 「杉本博司と日本の神々」(『芸術新潮』2022年1月号)。(筆者未見)。

 

そして金沢文庫の特別展のホームページです。https://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

2022年2月13日 (日)

美ビット見て歩き 102

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興福寺五重塔(2022.2.12鹿鳴人撮影)

いつも奈良新聞で楽しみにしている川嶌一穂さんの今年初めての「美ビット見て歩き」は、奈良興福寺五重塔です。現在調査中で、2022年度から修理とのこと、覆屋は2023年にはかけられると先日お寺の方は言っておられました。昨年秋に五重塔の初層公開がありました。後期の公開は今年3月予定でしたが、「コロナウィルスのため延期」と興福寺のホームページ→https://www.kohfukuji.com/news/1719/

には載っていて残念です。
覆屋がかかる前にせいぜい興福寺の勇姿を眼にやきつけ、修理の終了を待ちたいと思います。

2月12日はとても良い天気でしたので、五重塔の写真を撮ってきました。

 

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(画像はクリックすると拡大します)

美ビット見て歩き 私の美術ノート *102 川嶌一穂

 

令和大修理前の御開帳 奈良興福寺五重塔

 

写真 興福寺五重塔(令和三年十月十三日著者撮影)

 

 「何とかと煙は」という例えの通り、私は高いところが好きだ。子供の頃は一時期庭の夏みかんの木の上が憩いの場所だった。旅に出ても登れる所は基本、登ることにしている。

 お城の天守閣は、現存天守十二城のうち七城に登った。まだ訪れていない所が五城もあると思えば(弘前、丸岡、備中松山、宇和島、高知城)、それもまた楽しからずやだ。何と言っても上からの眺めが最高で、「あの山に見張り台を築いて」などとにわか城主になった気分。

 海外だと、イタリアの古都シエナにあるマンジャの塔が忘れ難い。高さ約100メートルの塔は、世界一美しいと言われるカンポ広場に面した市庁舎に付属している。エレベーターがないので、ひたすら足で登るのだが、その数400段とも500段とも言われる。階段は上になればなる程狭くなり、最後は人一人がようやく通れる幅しかない。「カワシマさんに殺される…」と呟きながら登った友人と二人、上からの眺めの美しさに疲れを忘れた。
眼下には扇を広げたようなカンポ広場、それを囲む明るい茶色のいわゆる「シエナ色」をした街並み、遠景にトスカナの山々の緑。しばしイタリアの田舎の美しさを堪能した。

 子供の頃は、よく興福寺の五重塔に登った。角度の急な梯子段のような階段で、登る時よりも降りる時が怖くて後ろ向きに降りた覚えがある。
 久しぶりに帰寧できた去年の十月、五重塔初層が特別公開されていることを知り、墓参りの帰りに立ち寄った。天平二年(730)藤原不比等の娘光明皇后によって建立されて以来五回の焼失・再建をくりかえして、15世紀に再建された現在の五重塔は、再建時に一般的だった禅宗様より古代様式を踏襲しているとのことだ。
公開された初層の南方に釈迦如来像、西方に阿弥陀如来像、北方に弥勒如来像、東方に薬師如来像がそれぞれ愛らしい脇侍菩薩二体を連れて鎮座しておられたが、子供の頃の私の記憶の中にそのお姿はないのだ。まだ仏様には興味がなかったのだろう。

境内東側の博物館や、北側から興福寺に入るとなだらかな道に感じるが、南側の猿沢池とは「五十二段」もの高低差があるし、南円堂の西側は崖地だ。平城遷都とともに鹿島神宮からお迎えした武甕槌命(たけみかづちのみこと)が降り立った御蓋山(みかさやま)から続く丘陵地の縁(へり)という地形をうまく生かした見事な伽藍配置である。かくして猿沢池から五重塔を臨む絶好の写真スポットが出来上がった。

おん祭の行列を見る時、眼医者さんに通う時、定期試験が終わってやれやれと友達と駅まで歩く時、いつも興福寺の境内を通った。
大人になってあちこちの五重塔を自分で訪ねるようになってから、ふと気づけば興福寺の五重塔が私の塔を見る基準となっていた。
山口の瑠璃光寺の五重塔は桧皮ぶきで屋根の反りがとても美しい。しかし塔身はちょっと細身だし、周りの庭園が整い過ぎている。
東寺(教王護国寺)五重塔は、現存塔としては日本一の高さを誇るだけに平地にあってもその量感はすごい。しかし白壁がないためか、ちょっと重い、などといつも興福寺五重塔と比べてしまうのだ。地元愛が強すぎるのか、人間見慣れたものが一番いいということなのか、困ったものだ。

五重塔は今年令和四年から百二十年ぶりとなる大規模修理に入るという。修理期間は約十年と予想され、塔は覆屋に覆われてしまうらしい。そこにあるのが当たり前だと思っていたので、寂しい。
その間は、伽藍南西の少し下がった所に静かに佇む三重塔を訪れよう。創建からわずか数十年後に南都焼き討ちに遭い焼失したが(1180年)、その後再建されたままなので、現存の五重塔より250年ほど歳上である。創建時の平安の様式を留めた優しい姿だ。

一月はお休みを頂いたので、今回が本年第一回になります。今年もあちこち見て歩きますので、どうぞごひいきに。

 

=次回は3月11日付(第2金曜日掲載)=
  ・・・・・・・・・・・・・・・
かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ
法相宗大本山興福寺 奈良市登大路町48。電話0742(22)7755(17時まで)。https://www.kohfukuji.com/ 初層四方の三尊像公開は3月1日(火)〜3月31日(木)。(公開は延期になりました。鹿鳴人注)


なお明治の廃仏毀釈で五重塔が売却され、危うく破壊されそうになったのを近隣住人の訴えでかろうじて免れた、というよく語られるエピソードを、前橋重二が正木直彦『回顧七十年』を典拠に否定している(「五重塔2500年史」新潮社とんぼの本『五重塔入門』)。

 

興福寺三重塔(2022.2.12鹿鳴人撮影)

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現在の興福寺伽藍配置図

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(画像はクリックすると拡大します)

 

 

 

2022年2月 9日 (水)

2月17日、桃蹊さんからの案内です。

書家の桃蹊さんからの案内が届きましたので紹介します。無料あるいはZOOMでどうぞとのことです。
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2月17日に開催されるSDGsと奈良に関するシンポジウムに参加します。
墨のこと、是非是非
最初のビデオ(5分)は日本語と英語のバイリンガルです。
シンポジウムはどなたでも参加できます. 直接ご来場いただけます。
また
ズームでご覧ください。よろしくお願いします
こちらからお申し込みください:
https://nara-manabitabi.com/entry-form/


I am taking part in this symposium about SDGs and Nara on February 17. It is in Japanese, but the first video (5 minutes) is bi-lingual Japanese and English.
The symposium is open to everyone. If you'd like to come please apply here.
Come in person or on Zoom.
https://nara-manabitabi.com/entry-form/

(追記)

桃蹊さんが若草山頂上で書かれた「寧楽」

とても大きな立派な字でした。

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2022年1月27日 (木)

NHK保山耕一さん。やまとの季節七十二候「黒々と若草山」大寒

 

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1月26日ならナビで放送された映像です⇒

以下はNHK奈良のホームページより。(映像も)

映像作家・保山耕一さんが、NHK奈良放送局「ならナビ」に、「やまとの季節 七十二候」をテーマとした極上の映像詩を届けてくれています。音楽は、スペインで活躍するピアニスト・川上ミネさんが、奈良で100年近くの時を刻んできたピアノで、オリジナル楽曲を奏でています。

やまとの季節七十二候「黒々と若草山」 大寒

保山耕一

世界遺産などの撮影で活躍してきたフリーTVカメラマン。「奈良には365の季節がある」をテーマに奈良県各地で日々、奈良の空や光、花、月、寺、などを撮影し、SNS発表・上映会を続けている。

 

川上ミネ

スペインと京都を拠点に活動しているピアニスト・作曲家。「ラジオ深夜便・ピアノが奏でる七十二候」、Eテレ「やまと尼寺精進日記」などの音楽を手がけている。春日大社奉納演奏会を機に保山氏と出会い、「こころの時代」でコラボレーション。2019年秋から、「やまとの季節 七十二候」の新たな作曲・演奏をスタート。

 

奈良県立桜井高等学校・100年ピアノ

桜井高校の100年ピアノは、高等女学校時代の1924年(大正13年)に開校20周年記念として購入された輸入ピアノのスタインウェイ社製です。学校の正面右手にたたずむ趣のある講堂に置かれ、卒業式などの式典で演奏されてきました。いつしか、ピアノは講堂から音楽室にうつされ、その後、音楽準備室の片隅で半ば忘れられたように眠っていました。平成22(2010)年、再発見されたピアノをもう一度よみがえらせようと、同窓会や学校が中心となった復活プロジェクト実行委員会が設置され、2012年2月に無事修復を終えたピアノは、かつて置かれていた講堂に戻され、ふたたび美しい音色を奏でるようになりました。

七十二候 について

 

七十二候(しちじゅうにこう)は、古代の中国で生まれました。立春、夏至、秋分…などで知られる二十四節気(にじゅうしせっき)を、さらに約5日ずつの3つに分けて、季節の移り変わりを感じる名前がつけられています。日本では、江戸時代の「本朝七十二候」、明治時代の「略本歴」など、いくつかの異なる七十二候が作られてきました。

「やまとの季節 七十二候」では、保山さんが記録してきた奈良県各地の映像から、いまの「やまと」の暮らしの中で、季節のうつろいを実感できる映像を選び出し、オリジナルの名前を添えて紹介しています。奈良を愛する方々に…これから奈良に出会うであろうすべての方々に…こころを込めてお届けしています。

【お知らせ】みなさまから心のこもったコメント投稿を数多くいただき、誠にありがとうございます。担当者一同、こころの励みとさせていただいております。関西ブログの投稿管理は、新しい記事の準備~公開作業とあわせて行っております。原則的には「新記事公開日に、前週投稿いただいたコメントをまとめて公開する」という運用です。その週のうちに公開できることもあるのですが、普段はお待たせしてしまうことが多いかと思います。どうかご理解のうえ、新しい記事公開とあわせてお楽しみいただければ幸いです。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

2021年12月24日 (金)

保山耕一さんの日経記事

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(画像をクリックすると拡大します)

日経新聞22日付夕刊に保山耕一さんの記事が大きく載っています。これを機会にさらに大きく仕事をなしとげていただきたいと思います。

(以下有料電子版より)

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映像で伝え続ける大和の魅力 映像作家・保山耕一さん
関西のミカタ

見出し。

「関西の奥深き魅力 発信を」

「関西広域誘客で価値向上」

 

関西タイムライン
2021年12月22日 2:01 [有料会員限定]

 

 

ほざん・こういち 1963年大阪府東大阪市生まれ。フリーランスのテレビカメラマンと
して「THE世界遺産」や「情熱大陸」などを担当した。現在は映像作家として奈良県を
拠点に活動。NHKの「やまとの季節 七十二候」も担当する。

■テレビ番組「THE世界遺産」(TBS系)などのカメラマンを務めてきた保山耕一さん(58)。
現在はがんと闘いながらほぼ毎日奈良のどこかへ出かけて映像を撮り続け、
「や
まとの季節 七十二候」(NHK)などの映像制作を手掛ける。

 

高校の文化祭でフィルム作品を作ったことをきっかけに「日本一のカメラマンになる」
夢を抱き、卒業と同時に映像世界に飛び込んだ。アルバイトの撮影助手から始まり、関
西を拠点にテレビや映画の制作に携わった。不安定なフリーの立場では、認めてもらわ
なければ生き残れない。生活の全てを仕事にささげ、大阪の地下街のホームレスを1年
間追ったドキュメンタリー作品は映像コンクールで最優秀賞を受賞した。審査員の大島
渚監督からは「新しい時代の新しい映像作家が生まれた」と評価してもらった。

 

フリーのカメラマンとしてジャンルは問わず仕事を引き受け、多様な被写体にカメラを
向け、自分が思うままに撮影をしてきた。キャリアを重ねていくなか、気づけば歴史紀
行や世界遺産の撮影が多くなった。一度は携わりたいと思っていた「THE世界遺産」か
らも声が掛かり、南米に赴いて1カ月間のロケを敢行した。高度な撮影技術が求められ
、1日も休むことなく睡眠時間も削って撮り続けた。

 

2013年夏、50歳のときに仕事中にトイレで倒れた。直腸に大きな腫瘍が見つかり、医師
からは余命2カ月と宣告された。放射線治療を続け、手術で直腸を全摘し、一命はとり
とめた。ただ、後遺症で突然トイレに行きたくなることがあり、その後がんが肺にも転
移した。5年の生存率は10%以下といわれ、カメラマンとしてのキャリアも終わったと思
った。

 

■テレビなど過酷な撮影現場には復帰できない。自分ができることを考えたときに、幼
少期から通った奈良の魅力を自分のカメラで伝えることを思いついたという。

 

 

毎日カメラを持ち奈良の風景を撮り続けている
残りの人生で自分は何ができるのか。考え抜いてたどりついたのが、幼少期から母に連
れられて来た奈良の風景を撮影することだった。季節感が豊かで、歴史風土もある。テ
レビなどの仕事では必要だった演出は施さず、実感したものをそのまま映像で伝え続け
た。これまで900本の映像作品を公開したほか、音楽と映像を組み合わせて上映会も開
催した。

 

奈良は新型コロナウイルスの感染拡大でインバウンド(訪日外国人)が消失し、観光客
は激減した。一方、本来奈良があるべき姿を見ることもできたと思う。繊細な季節の変
化や動物本来の営みがあり、日常の風景から奈良の美を観察すれば感性が磨ける。そう
いう思いからほぼ毎日奈良のどこかへ出かけて撮影し、ネットで世界への発信を続けて
いる。

 

■新型コロナ禍が落ち着いた先を見据え、関西の観光誘客のためには広域で「地域の商
品価値」を上げていく必要があると話す。

 

奈良という風土の魅力を一番分かっていないのは、実は奈良の人だと思う。インバウン
ドに来てもらうのは悪いことではないが、これまでとは違う発信の仕方が求められる。
世間では鹿や大仏というイメージが強いが、奈良にはもっと奥深い魅力とポテンシャル
がある。それを能動的に学び、感性を磨くきっかけをつくる必要がある。

 

関西全体でも共通する課題だ。例えば、奈良は田舎風の「鄙び(ひなび)」と呼ばれる
一方、京都は風流な「雅(みやび)」だ。日本古来の文化が詰まっている両地域が隣り
合っており、連携ができれば、もっと観光地としての商品価値は上がる。狭い1つの地
域ではなく、広域で考えたときの魅力は何か。そういう視点を持つ人材がいても面白い
と思う。(聞き手は松本晟)

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