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2023年11月11日 (土)

美ビット見て歩き ※122

奈良新聞で毎月楽しみにしている川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは、12日まで高畑町で開かれている田中教子展です。先日わたしも会場の藤間家住宅で拝見してきたところです。川嶌一穂さんと田中教子さんは、以前からお知り合いです。

会期も12日(日曜日)までとなりました。改修なりつつある春日大社の旧社家の貴重な住宅が会場です。

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *122 川嶌一穂

 

「田中教子展―二月堂の青石壇と金箔画」
奈良町見知ル2023同時開催・藤間家住宅公開イベント

 

写真 田中教子「二月堂の青石壇〜End point of the Silk Road」
2022年パリ、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール第160回記念展会場にて

 

 百寿嫗ことしは暑いと呟かれ(板倉恒子・産経俳壇9月21日)
猛暑の夏三か月がようやく終わり、例年より一と月遅れながら、今年も彼岸花と金木犀が咲いてくれた。このところさすがに木々も重い腰を上げ、梢の葉先をほんのりと染めはじめた。

 さわやかな風の吹く今日あたりは、銀杏の黄葉にはまだ早いだろうが、焼け門から東に入って、大仏池を左に見ながら、大仏殿の北側を通り、何段もの石段を上って、二月堂への道を歩きたい。
 鬼子母神さんにお参りしてから、たいていそのまま北側の屋根のある登廊を登るが、「青石壇」と呼ばれる南側の屋根のない石段から登ることもある。子どもの頃から、石段の下三段と上三段に線刻されている「亀甲」や「青海波」の模様を見るのが楽しみなのだ。

 しかし歌人の田中教子さんは、ただ楽しみに終わらせることなく、この刻印は、『華厳経』「入法界品(にゅうほっかいぼん)」の教義を表しているのではないかと研究された。

 華厳宗の総本山である東大寺二一八世別当の森本公誠長老に『善財童子求道の旅』という編著がある(東大寺HP上のオンラインショップで購入可)。これは、華厳経の終章にして、全体の三分の一を占める「入法界品」を絵画化した「華厳五十五所絵巻」(十二世紀末・紙本著色・東大寺など所蔵)という国宝絵巻を、便宜的に各場面に区切り、それぞれに長老が解説を加えたもの。
内容は、長者の子・善財童子が、悟りへの道を求めて、のべ55人の善知識(正しく仏道に導いてくれる善き友)を訪ねる物語。生き生きとした描写が素晴らしく、すべての場面に登場する善財童子の清らかで、愛らしいこと。安倍文殊院「渡海文殊群像」の善財童子像を思い出してしまう。

 石段の刻印は、その「入法界品」の中ほどにある、善財童子が険しい補陀落山をよじ登り、山頂付近に居ます観自在菩薩にようよう出会う場面を表しているのではないか。というのは、場面冒頭に「流泉浴池有り…地草柔軟にして…」という表現がある。これは青石壇の第一段の「流水」、第三段の「唐草」に符合するもので、曲線の意匠が続くので二段目に神秘的な力を宿す幾何学的な「亀甲」模様を入れた、というのが教子さんの解釈である。

長谷寺、清水寺、石山寺など観音様を御本尊とする寺はみな補陀落山を模して周囲より小高い所に位置し、建物も同じ懸崖造りである。納得できる説ではないだろうか。

しかし教子さんは紙の上での研究にとどまらず、みずから許可を頂いて石段模様の拓本を取り、なおかつそれを発想の源として絵画作品にされた。

写真にあげた「絹の道の最終地点」と題された作品は、和紙に金泥で描いた75cmX35cmのパネルを96枚組み合わせた、縦1.5m横16mという長大なもの。西洋的美意識からすれば、「禅スタイル」の墨絵に、おそらくロマネスク的稚拙さと、クリムト的豪華さの混じった、懐かしくも新しい抽象に見えるかもしれない。

今回の展覧会では、藤間家住宅の奥の間の4mの壁に合うように、組み合わせを変えて構成されている。

 奈良県出身の歌人・田中教子(のりこ・1967年生)さんは、2008年に「乳房雲」で第3回中城ふみ子賞大賞を受賞した歌人で、現在「ヤママユ」に所属。もう10年近く「本願寺新報(旬刊)」歌壇の選者を続けておられる。
 と思っていたら、2019年に教子さんの評論集『覚醒の暗指』が、第27回ながらみ書房出版賞を受賞された。わ、評論もされるのだ、と尊敬した。

 と思っていたら、昨年の快挙である。写真の『エンド・ポイント・オブ・ザ・シルク・ロード』が、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(フランス国民美術協会)総合金賞と、インスタレーション部門金賞というダブル受賞となった。もともと書道は、読売書法展や日本書芸院展で特選を重ねておられることを知っていたが、絵も描かれるのか、と大いに驚いた。

お若い頃から知っているので、いつも勝手に「教子ちゃん」などと親しく呼んでいるが、実はこんなにも多才なアーティストだった!これからも、ますますのご活躍をお祈り致します。

 

=次回は令和5年12月8日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ 藤間家住宅(登録有形文化財) 奈良市高畑町1325番1の1。電話=080(5541)9168。会期は、あさって11月12日(日曜日)まで。

 

 

2023年10月24日 (火)

「命の映像詩、やまとの季節」24日、25日、26日、27日、連日放映されます。

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そして

映像作家保山耕一さんの作品「命の映像詩 やまとの季節 秋から冬へ」が
10月27日(金)午前3:00~午前4:00(60分) NHKBSプレミアムで放送予定です。

堀尾岳行さんの紹介です。
「奈良在住の映像作家・保山耕一さんが撮影した冬から春へのうつろい。
一期一会の映像とピアニスト・川上ミネさんが奏でる楽曲。
響きあう音と光で、季節を感じる映像詩。

藤原宮跡のコスモス、彼岸花・月ヶ瀬・大柳生、藤原宮跡の夜明け、
綿・山の辺の道、安倍文殊院、斑鳩町、彼岸花・御所市、金木犀・平城宮跡、
曽爾高原のススキ、秋の蝶・淨教寺、五條市の秋、元興寺の萩、平城宮跡の秋、
白毫寺の萩、飛火野の秋、不退寺の秋、長岳寺の秋、正暦寺の秋、岡寺の秋、
奈良盆地雲海、矢田寺の紅葉、春日奥山、大仏池の初霜、晩秋の飛鳥川、
朱雀門、初雪・春日大社、山の辺の道・白石町、二上山落日」とのことです。

上記のように保山耕一さんの映像が、NHKで連日放送されますので紹介します。

以下は映像作家の保山耕一氏からのメッセージです。

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「命の映像詩、やまとの季節」
NHK BSプレミアムにて全4作4夜連続の再放送となりました。
トータルで4時間の映像詩。
ナレーションなし、すべての楽曲は川上ミネさんのソロピアノ曲。

番組へのご感想やご要望は是非ともNHKへお届けください。
NHKへ届いた視聴者のリアルな声が私や川上ミネさんへの一番の応援になります。
SNSに投稿する感覚で一言だけの感想でも大丈夫ですからNHKへ届けてください。あなたの声がNHKを動かすこともあります。
あなたの声には力があるのです。

局内で評価されるのは数字ですから、一人でも多くのご感想を蜘蛛の糸を掴む心境でお待ちしております。
視聴者の方から私に番組のご感想をメールやお手紙で送ってくださることがあります。私にとってすごく励みになり、本当にありがたいです。
ですが、それによって何かが変わるわけではありません。
もし、そのご感想を私宛だけではなくNHKへも送ってくだされば、次につながる力になるかもしれません。
私が最も望んでいる未来につながるかもしれません。

自分の力だけではどうすることも出来ない、でも、皆様のそんな力が集まれば道は出来ると信じたいのです。
きっとこれが私にとって最後のチャンスになると切実に感じています。
厚かましいお願いをお許しください。
どうかよろしくお願い致します。

NHK全国
https://www.nhk.or.jp/css/contact/

NHK奈良局(奈良県在住の皆様は奈良局へ)
https://www.nhk.or.jp/nara/contact/

全国と奈良局、両方に送って下さっても大丈夫です。

2023年10月15日 (日)

美ビット見て歩き ※121

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毎月、奈良新聞で楽しみにしている、川嶌一穂さんの美ビット見て歩き※121は京都の龍谷ミュージアム特別展「みちのくいとしい仏たち」です。文の中に、ちょうど先月末にお参りした天台寺のこともくわしく書かれています。

鹿鳴人のつぶやき⇒http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-412876.html

 

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *121 川嶌一穂

 

龍谷ミュージアム秋季特別展「みちのくいとしい仏たち」

 

写真 多聞天立像 江戸時代・寛政二年(一七九〇)頃 本覚寺(青森県今別町) 86.8cm 撮影 須藤弘敏

 

 「みちのくの仏」というと、何が思い浮かぶだろう。わたしは、藤原清衡の開いた奥州平泉中尊寺金色堂(岩手県平泉町)の諸像だ。金色堂に一歩足を踏み入れると、全身が金で覆われたたくさんの仏さまが文字通り眩しくて、直視できないほどだ。
 砂金によって莫大な富を築いた奥州藤原氏の平泉文化は周辺にもおよび、2年前に本欄で訪れた「白水阿弥陀堂」(福島県いわき市)も、東北に現存する貴重な阿弥陀堂である。
 藤原氏の栄華を象徴するこれらの仏像や寺院は、おそらく中央から仏師や大工を招いて造られたものだろう。もちろん、これらの仏さまは、テーマの異なる本展にはお出ましになっていない。

 ほかに東北には、まさに東北らしい仏さまがある。「一木造り」の仏である。木は乾燥させてから細工しても、どうしても干割れがおきる。しかもムクの木は重い。それを解決するために、平安後期の仏師・定朝が「寄木造り」を完成させてから、仏像の多彩な表現が可能となった。木彫の技法が大きく変化したのだ。

 それでも東北では、一木造りの仏が好まれた。今の私たちも、たとえば奈良豆比古神社(奈良市奈良阪町)境内に自生する樟の巨樹の下に立つと、その圧倒的な存在感に包まれて、神々しさを感じる。まさに御神木である。
木の神性を表現するには「一木造り」が適している。中でも、究極の仏、正確には神像が白山神社の「女神立像」(秋田県湯沢市)である。何と、女神像の足元にはケヤキの根っこが残されている。御神木から神が立ち現れたその瞬間を現した像だ。本展にはいらしてないので、ぜひネットなどでご覧下さい。

一昨年に亡くなった作家の瀬戸内寂聴さんが長年住職を務め、復興に尽力した天台寺(岩手県二戸市)に、寂聴さんの説法を聞きに、大勢の人が集まる映像をテレビで見た方も多いだろう。
岩手県の最北端、漆器で有名な浄法寺町に位置する天台寺は、奈良時代の草創とも伝わる古刹だ。本展の、大きな如来立像と伝吉祥天立像(二像とも平安時代・十一世紀)は、どちらも桂の一木造りである。
天台寺は、境内の桂の大木の根元から今も清水が湧く、平泉文化以前からの観音信仰の霊地だ。その「場」と「木」に対する土地の人々の信仰が、仏の形となった二像である。表情も、学年に一人は居たような庶民的なお顔で、身にまとう衣もごく簡素だ。
天台寺には、ほかにも素晴らしい仏さまがいらっしゃるが、すべて桂の木で彫られている。特筆すべきは御本尊・聖観音菩薩立像(平安時代・十一世紀)である。お顔と腕を除くほぼ全身にわざわざノミ跡を残して、「鉈(なた)彫り」風に美しく仕上げてある。霊木としての桂の木の姿をとどめたご本尊に、いつか必ず現地でお会いしたい。

会場は、これまでの美術展では出会ったことのない「いとしい」仏さま大集合だ。中には「いとしい」を通り越して「切ない」「いたわしい」作もある。
地方の民間に伝わった仏の作者としては珍しく名前の分かっている大工・右衛門四良(えもんしろう)作の多くの像もその例だ。
「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため…」という「賽の河原地蔵和讃」が聞こえてくるような「童子跪座像」(右衛門四良作・十八世紀後半・法蓮寺<青森県十和田市>)。像の底に丸みがあり、前後に揺れて、何度も鬼に謝るようになっている。何ともあわれだ。
写真の「多聞天立像」は、津軽半島の北端、もう目の前が津軽海峡という本覚寺の多聞天堂に伝わった。左手に宝塔を持ち、足元に邪鬼がいるので多聞天であることは確かだが、背中から頭上に舞い昇るのは龍神、横棒のついた花びらのような冠は閻魔大王、おまけに胸には大黒天を表す三つの宝珠が見える

 今年5月、青森県の岩木山登山道入口までタクシーに乗ったとき、そこここに残雪があって、そのことを言うと、運転手さんは一言「雪は魔物だぁ」と言われた。みちのくは、長い冬に苦しめられ、大きな自然災害に見舞われ、何度も中央から攻められてきた。造仏の儀軌(約束事)、そんな細かいことは言っていられないのだ。

 美しく表面を整えた像はない。小さくて、稚拙で、傷んだ作も多い。しかし帰り道に、忘れていた大切なことを思い出すような、そんな展覧会だ。

 

=次回は令和5年11月10日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ 龍谷ミュージアム 京都市下京区堀川通正面下る。電話=075(351)2500。京都駅から徒歩12分・西本願寺前。

https:// museum.ryukoku.ac.jp. 会期は11月19日(日)まで。月曜休館。

 秀吉の「奥州仕置き」については、安部龍太郎『冬を待つ城』(新潮文庫)が必読。
10月16日(月)付本紙に、本展招待券の「読者プレゼント」あり。ふるってご応募下さい。
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2023年9月10日 (日)

美ビット見て歩き ※120

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災からことしはちょうど100年ということです。先日、NHKでは関東大震災の映像をカラー化して、場所の特定などをしながら、地震とその後の火災の広がりなどを生々しく伝えていました。

毎月、奈良新聞に書かれている川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは、120回目を迎え、関東大震災の絵で伝える半蔵門ミュージアムの展覧会を紹介されています。

 

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *120 川嶌一穂

 

半蔵門ミュージアム「竪山南風《大震災実写図巻》と近代の画家」展

 

写真 宮武外骨「上野山王台の西郷隆盛銅像」『震災画報』(児玉千尋編『文豪たちの関東大震災』皓星社・2023年)より

 

 「関東大震災は、東京だけではなく横浜の被害もひどかった。閑院宮(かんいんのみや)さんのお姫(ひい)さんは、横浜のお宅でピアノの下敷きになって亡くならはった」。父親が閑院宮の侍医だった義母が、あるとき話してくれた。閑院宮を「最後まで京都に居てはった宮さん」と説明するのが、リアルで面白かった。

 調べると、閑院宮も明治10年には東京に移住しているので、大正初めに生まれた義母は、お屋敷に往診に行く父親の姿を実際には見ていないはずだが、京都寺町通り一保堂の隣にあった医院にお屋敷からお使いが来ると、斎戒沐浴して、全身白の袴姿で伺ったそうだ。

 また鎌倉市材木座に住む友人は、大震災発生の10分後に、界隈を4メートルの津波が襲ったという話を伝え聞いている。関東大震災はマグニチュード7・9だったから、津波が発生するのも考えてみれば不思議はないのだが、「関東大震災では、東京下町の火災による被害が大きかった」というイメージが強かったので、聞いたときは何か虚をつかれたような気がした。

 大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災から、今年はちょうど100年である。発生時間が昼食時だったため、火災が同時多発的に発生し、折からの強風にあおられて、東京市(当時)の約4割が焼失し、死者・行方不明者が10万人を超えるという未曽有の大惨事となった。
 このところ関東大震災100年を記念した行事や展覧会を目にすることが多かった中で、半蔵門ミュージアムで日本画家・竪山南風(かたやまなんぷう・明治20<1887>年〜昭和55<1980>年)の「大震災実写図巻」が展示されるというチラシを見つけた。南風のこの作品は知らなかったが、怖がりのわたしでも見られそうな絵だったので、まだまだ酷暑真っ盛りの8月終わりに出かけた。

15年前、鎌倉時代の仏師運慶の作と見られる「大日如来像」が、海外のオークションにかけられ、「すわ、海外流出か!」と危ぶまれたが、宗教教団・真如苑が落札し、国内にとどまることになったことがニュースになった。東京都千代田区にある半蔵門ミュージアムは、その大日如来像(重要文化財)を所蔵し、その他の仏教美術の所蔵品とともに、無料で一般公開する5年前にできた美術館である。
半蔵門は、徳川家家来・服部半蔵が警護を担ったところから名付けられた江戸城西端に位置する門であるが、桜の名所・千鳥ヶ淵や、英国大使館も近い都心の一等地である。前館長の西山厚さんは、奈良の方にはお馴染みだろう。

 震災の発生した9月1日は、再興第十回院展(岡倉天心が東京美術学校を辞職した後、横山大観、下村観山、菱田春草らと結成した美術団体)の初日で、横山大観の名作「生々流転」が出品され、注目された。横山大観に師事していた竪山南風は、初日に巣鴨の自宅から上野の会場に行き、帰宅して裸で縁側に座っているところを「突然に突きのめされるような激動」に襲われる。

 翌日も一帯は「まだ燃えつづいていて天を焦がしている」が、上野池の端にある大観の家が心配になって、電車が動いてないため二里の道を歩いて行った。大観は、「尻端折で一升ビンをぶら下げて見舞客にコップ酒を振る舞っていた」(竪山南風『想い出のままに』求龍堂・昭和57年)。大震災の翌日の豪快な大観の様子を伝えていて興味深いが、南風の「大震災実写図巻」は、まさにこの時に道筋で見聞きした体験が元になっているだろう。

 今回は、全31図のうちおよそ半分の、地震直後を描く上巻から「大地震」「大地欠裂」「列車顛覆」「凌雲閣飛散」「呪ノ火」「大紅蓮」、被災の混乱を描く中巻から「不安ノ一夜」「失望ト疲労」「市中ノ混雑」「貼札ヲ着タ銅像」、復興を描く下巻から「復興ノ曙光」「寂シキ月」「諸行無常」「大悲乃力」が出ていた。

 墨を基調として淡彩、時には濃彩を施し、確かな筆力で、実際に起きたことを淡々と描いた実写絵巻である。見る者は目を背けることなく見入り、深く内省に向かう。

 南風は図巻の「序」でこう語る。「吾この惨状を描かんと志して、筆渋りて動かざることしばしばなりき。然れども観世音の擁護によりて、ようやく一巻をなし終りぬ。願くは事実の惨を見ず、深く教訓のこもれるを察せられんことを」。
文中の「観世音」というのは、浅草寺の観音さまだと思われる。大震災の火災が四方から浅草寺に迫り、隣接する仲見世も全焼したのに、御本尊の観音像をはじめ主要なお堂は奇跡的に残った。南風は『実写図巻』の最後で「大悲乃力」と題した観音坐像を描いている。

中巻の「市中ノ混雑」は、人々が人の名を書いた板や旗を手に持って尋ね歩いている図。「貼札ヲ着タ銅像」は、上野の西郷像に貼られた尋ね人の札を描いたもの。ああ、人間は自分の身も危うい中で、大切な人を探して回るのだ、と胸が詰まった。

写真には、同じく大震災後の西郷像を描いた宮武外骨の「上野山王台の西郷隆盛銅像」を挙げた。宮武の画中説明文「尋ね人の貼紙数百枚 前例の無い悲痛な奇現象 歴史にも記録にも小説にも口碑にもない 哀れな共通的人情の発露」。

南風の「大震災実写図巻」については、メモに挙げた小学館版をご覧下さい。

 

=次回は令和5年10月13日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ 半蔵門ミュージアム 東京都千代田区一番町25。電話=03(3263)1752。東京メトロ半蔵門線「半蔵門駅」下車すぐ。https://www.hanzomonmuseum.jp. 会期は11月5日(日)まで。毎週月曜日・火曜日休館。「大日如来坐像」の常設展示あり。
竪山南風『大震災実写図巻』真如苑蔵。大正14(1925)年。紙本着色。巻子装三巻。縦各46.5cmx903cm、984cm、859cm。(飯島勇『現代日本絵巻全集13川端龍子・竪山南風』小学館・昭和59年)。
児玉千尋編『文豪たちの関東大震災』皓星社・2023年。

 

2023年8月17日 (木)

23日から29日、阪神梅田本店では(CM)

8月23日から29日まで、大阪の阪神梅田本店8Fのハローカルチャ22にて、Art Continuation  Project  がひらかれます。

大阪芸術大学の陶芸コースに勤める、甥の松森洋駆(ようく)君が出品しますのでよろしくお願いします。

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2023年8月13日 (日)

美ビット見て歩き *119

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(画像をクリックすると拡大します)

毎月、奈良新聞で楽しみに読んでいる、川嶌一穂さんの美ビット見て歩き*119は、ご尊父の歌人 猪股静彌さんの終戦直後、赴任されていた大分県国東郡姫島村のことが書かれています。終戦前後の厳しい世情がうかがわれます。
また私が新アララギ生駒歌会でお世話になり先頃お亡くなりになった、山口正志さまもよくお話になっていましたが、やはり姫島村で先生をされていたとのことです。

お盆に際し、猪股静彌先生、山口正志さまを偲びたいと思います。


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美ビット見て歩き 私の美術ノート *119 川嶌一穂

 

大分県東国東郡(ひがしくにさきぐん)姫島村(ひめしまむら)

 

写真 猪股靜彌二十一歳の「夏やすみ日記」(昭和二十一年)

 

 奈良市立一条高等学校に国語教師として34年勤務した亡父・猪股靜彌(大正十三年<1924>〜平成二十一年<2009>)は、大分師範学校(現大分大学)在学中の昭和18年に肋膜炎をわずらい、一年間の休学を余儀なくされた。
 「男の同級生の三分の一は戦死した。僕の時はもう南方へ行く船がなかった。もし肋膜炎になっていなければ、僕も危なかっただろう」。父は何度もこう話した。

 退院して復学後、昭和20年5月に久留米陸軍第一予備士官学校(福岡県)に入校し、工兵として8月の敗戦を迎えた。わずか数か月の軍隊生活だったが、あの話好きの父も、この時期のことはあまり語りたがらなかった。
 「久留米で、何してたの?」とあえて聞いても、ひたすら穴を掘ってた、とか、橋を造ってた、などと言うばかり。父は背が高く、隊で後ろから二番目だったので、重い工具を持つ役目だったらしい。

 そう言えば、私の小学校低学年くらいまで、家に「軍隊毛布」という、黄土色の、固くてとても重たい毛布が一枚あった。雨戸のない窓に、遮光カーテンがわりに寝るときに吊るしていた。除隊するときにもらってきたものだという。軍解体の時は、それはそれは醜い人間模様を見た、と漏らしたこともあった。

 敗戦後、復員してすぐに師範学校を卒業し、10月に姫島小学校に赴任した。姫島(ひめしま)というのは、大分県の北東部から瀬戸内海に丸く突き出た国東(くにさき)半島の北6キロメートル沖に位置する、東西7キロメートル、南北4キロメートルの「ひょっこりひょうたん島」のような形をした小島である。
  

写真の「夏やすみ日記」は、父が赴任の翌年にはじめて迎えた夏休みの日記で、その間ほとんど国東半島の実家に帰省していたのに、表紙には赴任地の姫島の絵が描かれている。

まだそのままにしてある実家の父の書斎の机に、あるとき何気なく座っていて、本棚に自然と手を伸ばしたところにあったのを見つけたもの。B5サイズより一回り小さな、文部省発行の習字のお手本のページの裏を使ったもので、7月20日から9月1日まで毎日欠かさず書いてある。

一読驚くのは、村に帰省して、旧友に会ったり、アララギの短歌会に出たりする他に、何日も村の土木工事に参加していることだ。「川工事」「石かつぎ」「井堰(いせき・川の水をせき止めるせき)工事」「腰をいためて休む。よる鍼をしてもらふ」などの記述が続く。

たとえば7月23日。「金丸井堰の工事にゆく。きれいなあゆがたくさんにゐた。川の姿もずい分変わったものだー。今は人の通る道さへもない。村も随分荒れてしまった。この荒廃の村を復興するのは、若い青年の労働あるのみだ。『労働は神聖也』本当に神聖だ」。

空襲を受けていない大分県の片田舎も、戦争中は男手がなくて、ずいぶん荒廃したのだろう。父は同世代がたくさん戦死したのに、自分は「生き残ってしまった」という負い目のような感覚を生涯持ち続けたように思う。

毎年夏、家で戦争の話になると、北九州の都会に住んでいた母は「食糧難は戦時中よりも戦後の方がひどかった」と言い、かたや姫島で下宿していた父は、よく生徒の父兄や近所の人に野菜や魚を届けてもらい、ひもじい思いはしなかったと言う。その度に母は恨めしそうな顔をした。

奈良市のあやめ池に住んでいる友人によると、駅に出るのに小さな峠を超えなければならないので、戦後、町中総出で、それこそ子どもまでモッコを担いで、坂のてっぺんを少し削ったそうだ。
父にせよ、あやめ池の住人にせよ、勤労奉仕に日当が出たわけではない。住みやすい今の日本は、こうした先人たちから孫や子に手渡されたものだということに、この歳になって改めて気づかされる。

 

休学と決り帰りしふる里に
盆おどりの唄更けて聞こゆる

藁蒲団のくぼみの形見てあれば
病みつつすでに秋たちにけり

ふる里に母は雨戸をとざす頃か
寮の夕べに今日は思ひき

征くと言へば母が手作りぜんざいの
そのうす味をねんごろにすふ

短歌百首と老いたる父母を村に置き
特甲幹工兵といで征く吾は

われ若く教師はじめの姫島や
 あはれ昂ぶり思ふまぼろし    (以上靜彌詠)
 
 父は、姫島小中学校での勤務を終えて、昭和23年4月、旧制最後の法政大学国文科に入学した。わずか2年半の島での滞在だったが、その印象は強く刻まれ、晩年まで姫島のことを思い続けた。

 この父の日記を見つけてから、わたしまですっかり姫島ファンになってしまい、これまで2度、8月旧盆のキツネ踊りを見に行き、もう1度は、海を渡る蝶アサギマダラが北上する時の休息地を5月の連休頃に訪れた。

 「昨日(きにょう)は大漁だったかえ」「五杯じゃった」
訛りもうれしフェリー待合室    (一穂腰折)

 

 姫島については、また稿を改めたい。

 

=次回は令和5年9月8日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ 大分県東国東郡姫島村。大分空港から伊美港までバス70分。伊美港から町営フェリー乗車20分。キツネ踊りなどの盆踊りは、8月14日と15日。
宿泊は、八千代館(電話0978−87−2010。1泊2食13530円から)など。
姫島の石と魚については、椋鳩十作『ふしぎな石と魚の島』(ポプラ社)が詳しい。
束田澄江作『あした飛ぶ』(学研プラス)は、アサギマダラをモチーフにしたすてきな童話。
内田康夫の『姫島殺人事件』は、もちろん完全なフィクションだが、方言がうまく拾われている。

 

 

2023年7月15日 (土)

美ビット見て歩き *128 馬場あき子さん

奈良新聞に連載の今月の川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは、歌人の馬場あき子さんです。

川嶌一穂さんは、馬場あき子さんのお能の解説を早くから聞いておられたそうです。

馬場あき子さんの1年間を撮影された映画「幾春かけて老いゆかん 歌人馬場あき子の日々」を紹介されています。

大阪の阪急電車の十三駅近くの第七藝術劇場で7月19日まで上映中とのことです。

わたしも6月末に、見に行きました。95才とは思えない元気さです。素晴らしい方だと思いました。そして良い映画と思いました。

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *118 川嶌一穂

 

映画『幾春かけて老いゆかん 歌人馬場あき子の日々』

 

写真 映画『幾春かけて老いゆかん 歌人馬場あき子の日々』チラシ

 

8年前に勤めを辞めるまで、近鉄大阪上本町駅の近くに住んでいた。生活全般何かと便利な所で、日本橋の国立文楽劇場へも歩いて行けたし、谷町六丁目にある大槻能楽堂へはぷらぷらと自転車に乗って行った。
大槻能楽堂で月に一度開かれていた「自主公演能」の企画が演目、演者とも素晴らしくて、よく通った。プログラムには、出演者紹介や、あらすじの他に上演詞章が全部載っていて、とても便利だった。たいてい公演の前には、30分ほどの解説があった。

梅若玄祥(当時)師による「関寺小町」を拝見したとき、はじめて馬場あき子の解説を聞いた。馬場あき子(昭和3年生まれ)と言っても、「鬼の研究」を書いた歌人、というくらいの知識しかなかった。

淡い色の着物をざっくりと、すそ短かに着て、足早に舞台に出て来られた馬場さんは、今計算すると86歳だったはずだが、とてもそんな風にはお見受けしない。声にハリはあるし、時々小さなメモをちらと見るだけで、固有名詞でも和歌でも淀むことなくすらすらと出て来る。
少し体を揺らしながら、生き生きと、楽しそうに話す。

その内容がまた分かりやすくて、何度も「そうだったのか!」と思わされる。
古典に詳しい歌人としての解説だろうと思っていたが、話が進むうちに、どうも違う、と気づく。演者でなければ持てない視点や、深い解釈が入る。調べると、戦後すぐに喜多流十五世宗家・喜多実師に入門、82歳まで舞を続け、新作能をいくつも書いているというとんでもない方だった。それ以来、「馬場あき子解説」という能会があれば、何はともあれ拝見する、と決めた。
先月うれしいことがあった。東京に引っ越して以来よく訪れる観世能楽堂で、山階彌右衛門師による「鸚鵡小町」を拝見したおりに、お手洗いの隣の鏡に馬場さんがいらしたのだ、観客の一人として。7月の本欄のテーマを馬場さんのドキュメンタリー映画にしよう、と思い付いた日だったので、驚いた。

映画は、馬場あき子の93歳から1年間の日々を見つめたドキュメンタリーだが、いつも行く大きな映画館ではやってないので、ちょっと遠出をした。観客はいっぱいで、年配の女性が多く、お隣の女性客に聞くと、やはり短歌をやっている方だった。

「幾春かけて老いゆかん」という映画のタイトルは、作者49歳の年の第五歌集「桜花伝承」の歌

さくら花幾春かけて老いゆかん
身に水流の音ひびくなり

から取られた。現在95歳の馬場あき子が、50歳を前にして「老いの覚悟」を詠った歌だ。早すぎる、と凡人は思うし、またその覚悟の通りに歳を重ねて来た、ということだ。

映画は、自宅で朝日新聞「朝日歌壇」の選歌をしている場面から始まる。2千数百首からⅠ0首を選ぶのだが、その早いこと。トランプのカードを切るようなスピードで、短歌の書かれたハガキを選っていく。それも「主に下の句を見ますね」などとおしゃべりしながら、である。その集中力たるや、驚異的だ。

映画の中で自分でも話しているが、ともかく好奇心が強い。「お笑い、好きよ。専門家ね」。
そして新しいものに偏見がない。これは映画には出て来ない話だが、「ニューウェーブ」歌人で日経歌壇の選者・穂村弘との対談で、穂村の「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」という歌を、馬場は「いいわよ」と言う。

馬場は6年前、やはり歌人の夫・岩田正を亡くした。93歳だった。岩田の
イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年
妻を愛して三十五年
という歌が二人の全てを語っている。幸せだった分、喪失の虚無も深かったことだろう。
が、馬場は言う、「日々面白い。うるさい程鳴いていた蝉が、ある日飛べなくなって、羽をバタバタさせて裏返って死ぬ。ああいう死に方がいい」と。

 馬場自身も自分を「妖怪変化」(「阿川佐和子のこの人に会いたい」<週刊文春>2023年6月1日号)と言うくらいだから、人生の目標とするには余りに巨大すぎるが、せめて死ぬ日まで、馬場さんのようにスタスタ歩き、ケラケラ笑っていたいな。

 

=次回は令和5年8月11日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ 映画公式サイトhttps://www.ikuharu-movie.com/ 10分ほどの「初日舞台挨拶」は必見。

第七藝術劇場 大阪市淀川区十三本町1−7−27 サンポードシティ6F(上映は5Fシアターセブン)。電話=06(6302)2073。阪急十三駅西改札口から徒歩5分。www.nanagei.com。上映は7月19日(水)まで(17日休映)。

 

 

2023年6月13日 (火)

ピアニスト川上ミネさん

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スペイン、日本を拠点に世界で活躍されている、ピアニスト川上ミネさんの「マイウエイ」という半生記をつづったコラムに出会いました。

44回ちょうど奈良県というタイトルの回です。


川上ミネさんのページです。写真は川上ミネさんのフェースブックから拝借。

http://www.minekawakami.com/diary/diary.cgi?page=24&fbclid=IwAR0Yqc670QsYFy95kut36ZIevf0VmYukGdxiEGhJHuyXPPIch4IyBq_UWGQ

 

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「奈良県


新型コロナウイルの拡大によって全ての音楽コンサートが中止となり、何も予定がなくなった。そんな中、私が以前から担当していた「やまとの季節七十二候」という番組の音楽制作に関して、NHK奈良放送局が、私のドキュメンタリー番組をつくることになった。

「やまとの季節」は、奈良在住の映像作家保山耕一さんがレンズを通して見つめた奈良の季節(七十二候)を、私が作曲・演奏するピアノとともに描く番組だ。ピアノは100年以上の歴史があるものを使用する。

「やまとの季節」は、コロナ禍で疲れた多くの心に受け入れてもらえたのだろうか。特にNHKのネット配信では想像を超えて多くの人々に見ていただけた。視聴回数は累計で数百万回に上った。

奈良は、一般家庭でのピアノ保有率が日本で最も高い県である。調べてみると、驚くほど古いグランドピアノが思わぬところで見つかったりする。

昔、キューバで暮らしていた時から感じていたことなのだが、古いピアノは樹齢の高い木にどこか似ていると思う。ピアノは簡単に動かすことができない大きな楽器だけに、一度設置されるとその場所にじっと佇んで年を重ねていく。その間に多くの人がそのピアノに関わっては去っていく。樹齢の高い大木にたくさんの鳥や動物が世代を超えて集まってくるかのようだ。

奈良県立桜井高等学校(奈良県)に、100年間大切に守り継がれてきたグランドピアノがある。ドキュメンタリー番組では、そのピアノを特別に使用させてもらって撮影をした。100年という年月の間にこのピアノの周りに集まり、演奏し、歌った生徒たちの一つ一つの記憶がその音に刻まれているようだった。新品のピアノには全く存在しない深い味わいを感じさせる音がした。

ピアノという楽器は、完成して工場を出た時からも成長を続けると思う。人間と同じようにさまざまな出会いや体験を一つ一つ楽器の奥に刻み、それが楽器の個性となって生き続ける。

ドキュメンタリー番組は「音のかたち」と言う番組になった。その後、国外でもさまざまな言語に翻訳されて国際放送として放送された。その番組を見た地球の裏側の人からもメッセージをいただけたことは、私にとって大きな励みとなった。」

 

川上ミネさんのページです。マイウエイをほぼすべて読めるようです。全部で50回もの連載だそうです。

 

http://www.minekawakami.com/diary/diary.cgi?page=24&fbclid=IwAR0Yqc670QsYFy95kut36ZIevf0VmYukGdxiEGhJHuyXPPIch4IyBq_UWGQ

 

そして6月11日、奈良公園バスターミナルのレクチャーホールでの保山耕一さんの上映会に、川上ミネさんが出演されました。

1部の奈良どっとFMの公開録音に出演とともに、アンコールに応えて最後に「道」というご自身の作曲のピアノ演奏をされました。

翌日からスペインの行かれるということでした。

CDの販売もされていましたので2枚買いました。

上映会のあとのサイン会は長い列でしたが、並んで最後CDにサインをもらいました。

川上ミネさんとは以前から保山さんの上映会で知り合っていましたので、当方のブログも読んでいただいているとのこと、そしてブログへの紹介も楽しみにしているということでした。

上映会の時の写真そしてサイン会で2ショット撮ってもらいましたので、記念にアップしておきます。

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獅子舞にかじられる前の川上ミネさん。

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サイン会は長蛇の列でした。2ショットとってもらいましたが、すこしすましていますね。

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そしてフェースブックでいつも素敵な奈良の写真をアップされているFさんが撮ってくれていました。ありがとうございました。
左から、岡本彰夫先生、川上ミネさん、そして奈良どっとFMの中川直子局長と。

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川上ミネさんのますますのご活躍を祈念します。そしてまた奈良に帰ってきてください。

 

 

 

2023年6月11日 (日)

川嶌一穂さんの美ビット見て歩き*117

桜井や宇陀あたりに行くと、織田有楽斎の名前がよく出てきます。川嶌一穂さんの美ビット見て歩き*117は、京都文化博物館でいか開かれている 四百年遠忌特別展『大名茶人 織田有楽斎』についてです。

奈良新聞の見出しには、武人であり「数寄者」の生涯を語る、 戦国から江戸の三代主君を変え生き抜くと、あります。

(画像をクリックすると拡大します)

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *117 川嶌一穂

 

京都文化博物館 四百年遠忌記念特別展『大名茶人 織田有楽斎』

 

写真 四百年遠忌記念特別展『大名茶人 織田有楽斎』チラシ

 

若いころの私なら、織田有楽(おだうらく・天文十六年<1547>〜元和七年<1621>)の、「二君に見(まみ)えず」とは対極にある生き方はとても受け入れられなかっただろう。
しかし今なら分かる。有楽の選んだ生き方の方がずっと困難で、意味のあるものだったと。


異母兄の信長が倒れた本能寺の変では、当時仕えていた信長嫡男の信忠とともに光秀軍に襲われ、京都二条御所に立てこもったが、信忠は自害して果てた。有楽は安土城に逃れて、信忠嫡男の三法師を守った。「逃げの源吾(有楽の幼名)」と言われる所以だ。
変の後、御伽衆として仕えた秀吉から、現在の大阪府摂津市に所領を与えられた。天正十四年(1586)頃、剃髪し、「有楽斎」と称したらしい。翌年、秀吉が開いた北野大茶湯にも参加している。武人でありながら同時に茶人として活躍し始めたのだ。


 有楽の作とされる、秀吉が伏見城内に設けた茶室は、明治時代に生糸貿易で財をなした原富太郎が横浜に開いた三渓園内に移されて、重要文化財「春草廬(しゅんそうろ)」として現存している。内部は公開されていないが、三渓園HPの「施設内360度カメラ」で、窓の多い、明るくモダンな姿を見ることができる。


秀吉の死後は、関ヶ原の戦いで東軍に属して戦功をあげ、家康より大和三万石を与えられる。さらに、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、芝村藩(奈良県桜井市)と柳本藩(天理市柳本町)を息子たちに託して、自らは出家した。


その数年後、京都建仁寺の塔頭・正伝院(現・正伝永源院)を再建し、書院と、これも窓を多用した茶室・如庵(じょあん・有楽の洗礼名から名付けたとも言われる)を設けた。
 如庵もまた現存する。紆余曲折を経て、愛知県犬山市の犬山城に隣接する日本庭園「有楽苑」に、書院とともに移築されて、京都山崎妙喜庵の「待庵」、京都大徳寺龍光院の「密庵」とともに国宝茶席三名席の一つとして今に伝えられた。


 会場に入ると、法体姿の「織田有楽斎坐像」がある。正伝永源院に伝わる木彫の坐像で、有楽生前の姿を写したと言われる。
 一見穏やかな、微笑をたたえたような表情だが、がっしりとした体躯、目の奥に宿る鋭い光、一文字に引き結ばれた口を見ていると、これでこそ戦国末期から江戸初期までの三代を生き延びることができた、と思わせるしたたかさが伝わって来る。


 会場の「第2章 有楽斎の交友関係」には、福島正則、徳川家康ら、有楽の交友関係の中で交わされた書状が並ぶ。その多くは茶室に掛ける茶掛けとして表装されたもの。情けないことにほとんど読めないが、忙しい時間の合間を縫って認められた手紙のようだ。どれも現代の書展で時々見かける「大向こうを唸らせてやろう」というところのない、気持ちのいい字だ。
茶会への招待やら、明日に予定していた茶会は大雨のために延期するなど、今だったらメールやラインを使うような短信から、当時の交流が偲ばれる。


 会場、続いての「第3章」は、「数寄者としての有楽斎」。多くが散逸してしまった有楽遺愛の茶道具が、400年の時を超えて、晩年を過ごした京都の地で今回一堂に会したことになる。優れたコレクションこそ、散逸の可能性が高いのかもしれない。
 後に松平不昧公の愛蔵ともなった、すっきりとした「黒漆一文字香合」、大坂城の落城とともに粉々になったのを漆で修復したという「唐物文琳茶入」、ひび割れを鎹(かすがい)で留めた「青磁輪花茶碗」、そして「有楽井戸」と呼ばれる重要美術品の大井戸茶碗。みな実際に使いやすそうで、ずっと見ていたい名品だ。


 富岡鐵斎の描いた「如庵図」も出ている。淡彩をほどこした柔らかな墨の筆致が、隠居して茶の湯三昧の生活を送っている有楽のほのぼのとした暮らしぶりを伝えている。
 写真のチラシを見て頂きたい。花びらの先が少し赤みを帯びた白い蓮の花が群れ咲く池の上を、金地をバックに二羽のツバメが飛んでいる襖が、ちょっと開いた。「ま、一服」とでも言うように、畳の上に「有楽井戸」がそっと置かれる。まさに、忙中楽(・)しみ有(・)り。

 

=次回は令和5年7月14日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ 京都文化博物館 京都市中京区三条高倉。電話=075(222)0888。https://www.bunpaku.or.jp。
近鉄京都線竹田駅乗り換え、京都市営地下鉄烏丸線烏丸御池駅下車。5番出口から三条通りを東へ徒歩4分。
会期は6月25日(日)まで(月曜休館)。
6月21日(水)14時から30分程度のギャラリートークあり(当日の入場者向け、参加費無料・事前申込不要)。

 

 

2023年5月 2日 (火)

写真家 井上博道さん

5月の動画講座で写真家の井上博道さんがとりあげられるそうです。もと朝日新聞記者の小滝ちひろさんが井上千鶴さんにインタビューされるそうです。

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文化講座「なら学舎」の5月オンデマンド動画講座のお知らせです。
「司馬遼太郎が愛したカメラアイ 井上博道」と題して、
奈良を中心に社寺や自然を撮り続けた写真家、井上博道さんにスポットを当てました。
事務局長の小滝ちひろが井上夫人千鶴さんにインタビュー。博道さんと司馬さんの交流などについて伺いました。
視聴料¥1500です。お申し込みは下記からどうぞ。

https://peatix.com/event/3569368/view?fbclid=IwAR18piWNiCHKIeqSmfFNdQ8wMDD08REgyRjQQ3thRdOsoOfVaxPr7AMTUl4

司馬遼太郎がこよなく愛しんだ写真家が奈良にいました。
井上博道さん(1931〜2012)です。
奈良を中心に関西の社寺や自然を、ひたすらに撮り続けました。それ以外の被写体はほとんどなかったといってもいいでしょう。
東京進出を考えた時もあったけれど、司馬さんのひとことで翻意したといいます。
何があったのでしょうか?
なら学舎の小滝ちひろが、昨年から「井上博道記念館」の館長を務める夫人、井上千鶴さんにインタビュー。裏話をたっぷりと語っていただきました。

公開期間:5月21日〜6月20日(随時、何度でも視聴可)
放映時間:約1時間
視聴料 :¥1500
申込締切:6月19日0時
お申し込み、ご入金いただいた方に動画URLをお知らせします。

主催者
なら学舎

 

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