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2020年7月 2日 (木)

奈良県立図書情報館2F、保山耕一さんの映像

久しぶりに奈良県立図書 情報館へ行きました。2Fエントランスでは保山さんの映像が流れていました。

久しぶりに見る大型画面の映像。夕方で少し暗かったせいか、割合はっきり見えました。

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6月16日から7月30日まで。

28分間のリピート再生。初夏の色彩というタイトルです。つぎつぎと初夏の風景が出てきました。

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十津川村の果無集落も出てきました。ドローン撮影ですばらしい風景が映し出されました。

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2020年6月14日 (日)

美ビット見て歩き*84

奈良新聞で毎月楽しみにしている、川嶌一穂さんの美ビット見て歩きの今月は、「昭和の子どものお手伝い・・・母と一緒に料理や編み物」です。

今回、読みはじめて懐かしいお話に興味があふれました。

まず写真は、東大寺南大門でのスナップです。弟さんといとこさんと柱に3人、どなたが撮られたのか素晴らしい写真です。

そして一条通の𠮷寅という八百屋さんの話。その息子さんが吉川啓右(けいすけ)さん。いま花芝でレストラン「吉川亭」の名物シェフ、わたしの小学校、中学校以来の同級生です。

川嶌さんはお母様との料理や編み物の手伝いの様子をよく覚えておられます。

二〇一〇六一六の漬け梅の母のラベルも古びにけるかな 一穂

川嶌さんには「昭和の子どもたち」をぜひエッセイを書きつないでいただきたいと思います。

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *84 川嶌一穂

 

昭和の子どものお手伝い

 

写真 昭和34年頃の東大寺南大門で、従姉と弟と。柱は痩せ、かなり傷んでいる。

 

 「外出は食料と日用品の買い物だけ」という生活を3か月近く続けたのは、物心着いてから今回がはじめてだ。少し時間がかかったが、そのうち次第に体に馴染んで、地元の個人商店で買い物していた子どもの頃のことをよく思い出した。
 昭和30年代、まだ家に冷蔵庫がなかった頃、母はほとんど毎日、野菜は一条通りの吉寅(よしとら)さん、魚は東笹鉾町の西川鮮魚店へ通った。和菓子の萬林堂さんは、当時まだなかった。
 吉寅の大将は野太い声で真桑瓜でも西瓜でも「今日はええのが入ってるで」と勧め上手で、品物は確か。木戸をくぐった奥にはちょっとした生まものもあって、蝿避けの大きな線香が置いてあった。竹の簀の子に入ったカマスゴを買って、さっと湯通しして酢醤油で食べるのは美味しかった。大将と同じ前掛けをして甲斐甲斐しく働いていた息子の啓ちゃんが、いま花芝商店街の吉川亭の名物シェフである。
 家ではよくお手伝いをした。頭を2cmほど切り、切り口に塩をまぶして渡された胡瓜を、「はい、ありがと」と言われるまで、頭と胴体をこすり合わせる。今よりも胡瓜のアクが強かったのだろう。
 グリンピースを鞘から出すのは、楽しかった。ふっくらと膨らんだ鞘の端を親指で強く押すとパカっと、かすかな音がして割れる。筋に沿って開けていくと、生まれたての赤ちゃんの足の指のような豆が現れる。それを親指で落として行く。豆がステンレスのボールに落ちる時、こんころこんと可愛い音がした。
 一番怖いお手伝いは、柏餅の漉し餡を作るときだ。母が両手鍋に煮上がった小豆を汁ごとこぼすのを、下でわたしがさらしを縫った袋を手に持って受けるのだが、湯気で熱いの何の!しかも袋はすぐにぱんぱんになって、重たいの何の!「手ぇ、放したらあかんよ」と母の檄が飛ぶ。熱いうちに濾さないといけなかったのだろうが、あれは怖かった。
 昔はセーターも手編みだった。毛糸は売っている綛(かせ・毛糸を輪にして束ねたもの)のままでは編みにくいので毛糸球にする。その時も子どもの出番だ。
両手の肘を曲げて胸の前で立てる。その腕に母がそーっと綛をかける。母が向かい合わせに座って、自分の右手に毛糸を巻き取っていくのだが、子どもは両腕を丁度いい間隔に保つのがけっこう大変なのである。両腕をきつく張りすぎると毛糸が出て来にくいし、ゆるければ綛が外れてしまう。小学校も高学年になると、毛糸を引っ張りやすいように腕ごと回したりして、もうすっかりベテランである。
 わたしがうんと小さいとき母が編んでくれた赤いカーデガンが嫌いだった。赤色一色ではなく3種類ほどの同系色の毛糸を編んだもので、手首のゴム編みと前立ては濃い赤色、腕と身頃も2色に編み分けられていた。
何十年も経ってから、「あのカーデガン、今なら手編みのパッチワークでお洒落やろうけど、あの頃は嫌やったわ」と、何気なく母に話すと、返事が返ってこない。ふと見ると、膝の上にパラパラパラと大粒の涙がこぼれていた。
「しまった!」
敗戦後すぐの物の無い時代に子どもを育てるのがいかに大変だったか、言葉にならなかったのだろう。百人一首の「つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」だった。

 

二◯一◯六一六の漬け梅の母のラベルも古びにけるかな (一穂)

 

=次回は7月10日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

2020年5月24日 (日)

會津八一の色紙

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先日、もと奈良新聞記者の小久保忠弘さんから、會津八一記念館発行の會津八一の色紙をいただきました。

読み方を姫路の會津八一研究家の池内力さんに聞きました。

「良い色紙をもらわれましたね。出典は王維の「秋夜独坐」から

雨中山果落 燈下草蟲鳴 


雨中山果落ち 灯下蟲草鳴く

とのことです。

小久保さん、池内さんどうもありがとうございました。

2020年5月21日 (木)

申し込み受付開始 「桜咲く」DVD、Blu-ray、29分

待たれていた保山耕一さんからのメッセージです。

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(申し込み受付開始)
「桜咲く」DVD、Blu-ray、29分
参加アーティストから、それぞれ1曲を提供頂き、保山耕一が今年撮影した桜の映像を音と響かせた珠玉のコラボ作品です。
コロナ自粛の影響で活動の場や収入を絶たれたアーティストがこれからも音楽を続けていくために、僅かながらの支援を目的に販売します。
「奈良、時の雫」上映会で、たくさんの観客を楽しませて頂いた奈良とご縁のあるアーティストの皆様に、何か出来ることはないかと思い、この企画がスタートしました。
活動の支援が一番の目的ですが、自画自賛で恐縮ではありますが作品の質は素晴らしいです。
4k撮影の高画質を生かすためにBlu-rayでも販売します。
少しでも支援を厚くするためにジャケットなどは簡素にしています。
DVD、Blu-ray、共に2500円となります。
どうかよろしくお願い致します。
皆様からの申し込みをお待ちしております。
申し込み特設サイト
https://event.nara.jp/sp/hozan/sakurasaku
保山耕一

2020年5月11日 (月)

美ビット見て歩き*83 森鴎外著 『澀江抽斎』

奈良新聞でいつも楽しみにしている川嶌一穂さんの5月の美ビット見て歩きは、森鴎外の書いた『澀江抽斎』についてです。江戸末期の津軽藩医官の日々を伝記にしたとのことです。


私もちょうどコロナ休業のときに森鴎外の奈良での五十首という短歌についての本を読んだばかりでした。今月は森鴎外が取り上げられています。森鴎外は多才で医師であり小説家であり晩年、帝室博物館総長をつとめ奈良にも毎年正倉院の曝涼のときに滞在しています。かつて島根県津和野町の地味な森 林太郎の墓を訪れたことを思い出します。

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *83 川嶌一穂

 

森鷗外著「澀江抽斎」

 

写真 妻・志げ宛大正11年(1922)5月5日付森鷗外手紙(「鷗外の遺産1」幻戯書房刊より)

 

 以前「無人島に持って行く一枚の絵」の話をしたことがあるが、きょうは「無人島に持って行く一冊の本」のお話。私にとっての一冊は森鷗外(文久二年<1862>〜大正十一年<1922>)の晩年の作品「澀江抽斎」だ。


 抽斎澀江道純(文化二年<1805>〜安政五年<1858>)は津軽藩の医官で、考証学者。鷗外は江戸時代の武鑑(大名や幕府役人の氏名、家紋、石高などを記した年鑑)を収集する過程で、古書店に出る武鑑の蔵書印からその名を知り、興味を持った。


 江戸末期に日々を生きる一人の医官の伝記を書くに当たって、鷗外はその家族から交友関係までを詳しく描写し、同時に大正という時代にそれを調べて行く様子を並行して記す。たとえば、抽斎の子・保(たもつ)さんの存在が分かったが、次女の杏奴が病気になったのでなかなか会いに行けないでいると、保さんが鷗外を職場に訪ねてくれた…などとあって、読者は「ああよかった。それで?」と次を読みたくなる。

 抽斎は伝記「澀江抽斎」の中ほどで、その年江戸市中で2万8千人の犠牲者を出した虎列拉(コレラ)のために五十四年の生涯を閉じてしまうのだが、残された家族の物語は淡々と続き、大正五年の記述で、執筆する鷗外の「今」に物語が合流する。読後、日本古来の学問とそれを担った人々が否応なく流されていった時代の怒涛の響きがいつまでも耳に残る。

 このご時世で、古い「鷗外選集」を本棚から引っ張り出して何度目かの再読をしたのだが、今回新しい発見があった。鷗外は「その九」で、保さんから資料を受け取ったことを記し、続けて「ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである」と言う。

となると作品「澀江抽斎」は、子の保さんから聞いた話なのか、それとも鷗外の創作なのか、ずっと気になっていた。それが何と、鷗外の蔵書を「鷗外文庫」として所蔵する東京大学附属図書館がインターネット上で公開しているデータベースに、保さんから受け取った資料の写しが含まれていることが分かった。これでインターネットにアクセスできる環境があれば、鷗外が保さんから受け取った資料と「澀江抽斎」とを読み比べて、創作の跡を辿ることができる。家にいる楽しみが一つ増えた。

 鷗外は、大正六年に帝室博物館総長に任ぜられ、毎年秋に正倉院曝涼のため奈良に出張した。そのとき滞在した官舎はもう無いが、門だけが今も奈良国立博物館敷地の北東の隅に「鷗外門」として保存されている。

 写真は、鷗外が家に送った手紙に添えた蓮華の押し花と、その包み紙に書かれた「アンヌにとらせたい正倉院の中のゲンゲ」の文字。鷗外の次女・杏奴は当時13歳。今は正倉院も美しく整備され、塀で囲まれているが、敗戦後すぐは高床の下でホームレスが雨露をしのいでいたという。蓮華の花は、大正末年のちょうど今頃、正倉院のどの辺に咲いていたのだろう。

この手紙のわずか2か月後に、鷗外は「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という有名な遺言を述べ、一切の治療を拒否して逝った。

 

=次回は6月12日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ
 「東京大学附属図書館」の「鷗外文庫書入本画像データベース」中、保さんの書いた「抽斎歿後」(157ページ)では、「夫婦で外出した時、途中で激しき雷鳴に出遇つた。母の話に、直ぐ頭の上で、天が二つに裂けた(と?)見えて。其の刹那に、天上から地上に向つて、一直線に、火柱がたつたやうな感がした。間もなく、耳を貫く如く音がして、大地が震動し、夫婦共に覚えず地上へ倒れた。…」とある。

鷗外「澀江抽斎」(その六十四)には、「五百(いお・抽斎の妻の名)と道を行く時の事であつた。陰つた日の空が二人の頭上に於て裂け、そこから一道の火が地上に降つたと思ふと、忽ち耳を貫く音がして、二人は地に僵(たふ)れた…」とある。素材と作品との微妙な関係が非常に興味深い。

 

2020年4月15日 (水)

第4回入江泰吉記念写真賞

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第4回を迎える入江泰吉記念写真賞の案内パンフです。

くわしくは以下のHPをご覧下さい→http://photocontest.irietaikichi.jp/

2020年4月11日 (土)

美ビット見て歩き

いつも楽しみにしている川嶌一穂さんの美ビット見て歩きが久々に奈良新聞に掲載されています。大和言葉で禅の教えを説く、というテーマです。このコーナーはますますお元気で続けていただきたいと思います。

よろしくお願いします。

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *82 川嶌一穂

 

白隠禅師の呼吸法

 

写真 別冊太陽「白隠 衆生本来仏なり」表紙(平凡社 2013年)

 

白隠(1685〜1768)と言えば、ぎょろりとした目が特徴的な数々の「達磨図」や、迫力と稚気を併せ持った「本来無一物」などの書をたまに目にする程度で、詳しく知っていたわけではない。その白隠と、「呼吸法」の白隠とを結びつけて考えることもなかった。
数年前、自宅近くで坐禅会を開いている天台宗の寺院をインターネットで見つけて参加するようになったが、坐禅の前に「白隠禅師坐禅和讃」を全員でお唱えする。
「坐禅和讃」についても全く知らなかったが、そのうちに「あ、」と思う所が出て来だした。「衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし…譬えば水の中に居て 渇きを叫ぶがごとくなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず」…。
人生も後半に差し掛かる頃から、「理想を他に追い求めても虚しい。今・ここを理想の世界にして行くしかない」というようなことをぼんやりと感じていたのを、「坐禅和讃」は言葉にしてくれているのではないだろうか。
そう思うと、江戸時代前半の禅僧・白隠という人物が生き生きと立ち上がり、彼が語った呼吸法とはどういうものか、俄然知りたくなった。それで直木公彦著「白隠禅師 健康法と逸話」(日本教文社・昭和三十年)という本を買い求め、我流でやってみた。
床の中で全身を脱力させて、深く長い腹式呼吸をするのが基本で、吐く息を丹田に落とし込むイメージを持つ。本当は下半身(腰、脚、土踏まず)に力を込めるのだが、それはまだできない。構わずに続けていると、ふっと肩の力が抜ける瞬間がある。うまく行くと足の先までぽかぽかと暖かくなるし、知らない間に眠ってしまう。以来夜に寝付けないということがなくなった。
本来禅宗は「不立文字」を旨とするが、白隠は五十以上もの著作を生前に刊行した。もちろん漢文による語録もあるが、漢字仮名交じり文、つまり大和言葉による法語を多数残した。健康法も後者である。
現代でも、お経は梵語の仏典を中国語訳した漢文で書かれているので、聞いただけでは内容が分からない。庶民に布教するためには自国の言葉で書かれた経典が必要である。16世紀ドイツのルターによる宗教改革も、ギリシア語やヘブライ語で書かれていた聖書をドイツ語に翻訳することがその根幹を成していた。
その意味で、親鸞(1173〜1262)の和讃、蓮如(1415〜99)の御文と同様に、白隠の仮名法語は貴重である。
美術にせよ、文学にせよ日本の文化には仏教の理解が不可欠である。が、私の苦手な分野でもある。外出もままならない今、本棚に眠っている仏教関係の本を読むいい機会にしようと思う。まず佐藤春夫訳の「観無量寿経」(ちくま学芸文庫)を取り出して来たところだ。
3月は体調不良でお休みを頂き、失礼しました。何とか生き延びよう!

 

=次回は5月8日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ 「親鸞和讃集」(ワイド版岩波文庫)=四行書き一首を単位として、経や高僧伝をまとめたもの。例えば「皇太子聖徳奉讃」では、…橘のみやこよりしてぞ/奈良のみやこにうつれりし/数大(しゅだい)の御寺(みてら)を造隆し/仏法さかりに弘興(ぐこう)せり…と聖徳太子の事績が語られる。「蓮如文集」(岩波文庫)=親鸞の教えを蓮如が手紙の形で述べたもの。有名な…朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり…もこの中にある。

 

2020年4月 5日 (日)

ブログ 「短歌のこと」

服部素空氏の会津八一研究のページを見ていて参考になったと言っておられる方のホームページにたどりつきました。

参考になります。

https://tankanokoto.com/category/

 

 

2020年4月 2日 (木)

服部正博(素空)氏の会津八一研究ページ

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服部正博(素空)氏。2019年6月20日撮影。

會津八一の研究をWEB上で発表しているのは、私の知るかぎりでは、服部正博(素空)氏が一番ではないかと思います。

彼は、早稲田大学を経て勤めのあと、三重県四日市市の家業を継ぐかたわら、會津八一の門下の早稻田大学名誉教授の植田重雄先生の薫陶も得て、會津八一を長年にわたり研究されました。

また安達先生の指導で長年、仏像彫刻にも力を入れていました。残念ながら2019年8月14日急逝されました。71才。

彼の残している、ライフワークであった會津八一研究のホームページをご子息の努力であらためてアップされていますので紹介します。

膨大なページ数です。先日、私は本のように残したいと思って研究のページをプリントアウトしました。そしていま読み始めています。本文だけでA4版で430ページを超えました。たいへんな労作です。

ご子息からの案内です。

会津八一研究ページは、以下で存続しておりますので、ご覧ください。
http://surume81.web.fc2.com/hitorigoto/81/81top.html」

それから、服部氏が長年に亘って書かれたブログも残されています。

2019年7月までの独り言は、以下で参照できます。
http://surume81.web.fc2.com/hitorigoto/mokuji.html」

 

 

2020年3月31日 (火)

J洋画会展はじまる

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いろいろな催しが中止になる中、3月31日から4月5日(日曜日)まで、J洋画会展がギャラリーまつもりでおこなわれます。

きょう31日拝見しました。見たことのある景色や外国の風景や静物画など6人の方と先生の大東純子さんの作品が展示されています。

どうぞお越し下さい。朝10時~5時まで。最終日の4月5日は4時までです。

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