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2021年12月24日 (金)

保山耕一さんの日経記事

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(画像をクリックすると拡大します)

日経新聞22日付夕刊に保山耕一さんの記事が大きく載っています。これを機会にさらに大きく仕事をなしとげていただきたいと思います。

(以下有料電子版より)

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映像で伝え続ける大和の魅力 映像作家・保山耕一さん
関西のミカタ

見出し。

「関西の奥深き魅力 発信を」

「関西広域誘客で価値向上」

 

関西タイムライン
2021年12月22日 2:01 [有料会員限定]

 

 

ほざん・こういち 1963年大阪府東大阪市生まれ。フリーランスのテレビカメラマンと
して「THE世界遺産」や「情熱大陸」などを担当した。現在は映像作家として奈良県を
拠点に活動。NHKの「やまとの季節 七十二候」も担当する。

■テレビ番組「THE世界遺産」(TBS系)などのカメラマンを務めてきた保山耕一さん(58)。
現在はがんと闘いながらほぼ毎日奈良のどこかへ出かけて映像を撮り続け、
「や
まとの季節 七十二候」(NHK)などの映像制作を手掛ける。

 

高校の文化祭でフィルム作品を作ったことをきっかけに「日本一のカメラマンになる」
夢を抱き、卒業と同時に映像世界に飛び込んだ。アルバイトの撮影助手から始まり、関
西を拠点にテレビや映画の制作に携わった。不安定なフリーの立場では、認めてもらわ
なければ生き残れない。生活の全てを仕事にささげ、大阪の地下街のホームレスを1年
間追ったドキュメンタリー作品は映像コンクールで最優秀賞を受賞した。審査員の大島
渚監督からは「新しい時代の新しい映像作家が生まれた」と評価してもらった。

 

フリーのカメラマンとしてジャンルは問わず仕事を引き受け、多様な被写体にカメラを
向け、自分が思うままに撮影をしてきた。キャリアを重ねていくなか、気づけば歴史紀
行や世界遺産の撮影が多くなった。一度は携わりたいと思っていた「THE世界遺産」か
らも声が掛かり、南米に赴いて1カ月間のロケを敢行した。高度な撮影技術が求められ
、1日も休むことなく睡眠時間も削って撮り続けた。

 

2013年夏、50歳のときに仕事中にトイレで倒れた。直腸に大きな腫瘍が見つかり、医師
からは余命2カ月と宣告された。放射線治療を続け、手術で直腸を全摘し、一命はとり
とめた。ただ、後遺症で突然トイレに行きたくなることがあり、その後がんが肺にも転
移した。5年の生存率は10%以下といわれ、カメラマンとしてのキャリアも終わったと思
った。

 

■テレビなど過酷な撮影現場には復帰できない。自分ができることを考えたときに、幼
少期から通った奈良の魅力を自分のカメラで伝えることを思いついたという。

 

 

毎日カメラを持ち奈良の風景を撮り続けている
残りの人生で自分は何ができるのか。考え抜いてたどりついたのが、幼少期から母に連
れられて来た奈良の風景を撮影することだった。季節感が豊かで、歴史風土もある。テ
レビなどの仕事では必要だった演出は施さず、実感したものをそのまま映像で伝え続け
た。これまで900本の映像作品を公開したほか、音楽と映像を組み合わせて上映会も開
催した。

 

奈良は新型コロナウイルスの感染拡大でインバウンド(訪日外国人)が消失し、観光客
は激減した。一方、本来奈良があるべき姿を見ることもできたと思う。繊細な季節の変
化や動物本来の営みがあり、日常の風景から奈良の美を観察すれば感性が磨ける。そう
いう思いからほぼ毎日奈良のどこかへ出かけて撮影し、ネットで世界への発信を続けて
いる。

 

■新型コロナ禍が落ち着いた先を見据え、関西の観光誘客のためには広域で「地域の商
品価値」を上げていく必要があると話す。

 

奈良という風土の魅力を一番分かっていないのは、実は奈良の人だと思う。インバウン
ドに来てもらうのは悪いことではないが、これまでとは違う発信の仕方が求められる。
世間では鹿や大仏というイメージが強いが、奈良にはもっと奥深い魅力とポテンシャル
がある。それを能動的に学び、感性を磨くきっかけをつくる必要がある。

 

関西全体でも共通する課題だ。例えば、奈良は田舎風の「鄙び(ひなび)」と呼ばれる
一方、京都は風流な「雅(みやび)」だ。日本古来の文化が詰まっている両地域が隣り
合っており、連携ができれば、もっと観光地としての商品価値は上がる。狭い1つの地
域ではなく、広域で考えたときの魅力は何か。そういう視点を持つ人材がいても面白い
と思う。(聞き手は松本晟)

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2021年12月19日 (日)

大駱駝艦公演へ

大駱駝艦公演を奈良で見られるのは以前もあったそうですが、私にとってはめったにないことです。お誘いありましたので見て来ました。

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金粉姿の男性7名、女性7名、そして学生服姿の男性とふたりの女子学生が舞台狭しと、ビバルディの「四季」の春の音楽などに合わせての舞踏劇でした。あっという間に1時間あまりが経ちました。相当の運動量だと思います。

ロビーにて、2階から大きな垂れ幕がかかっていました。

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開演前のステージです。思った以上にたくさんの人が詰めかけておられました。わたしは前から5列目で拝見しました。

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閉演後のステージ。

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終演後ホワイエでお誘い頂いた、舞台では女子学生そして貴婦人の服装で出演された主演級の、同窓の鉾久奈緒美(むくなおみ)さんとお会いできました。右後ろに麿 赤兒さん。お二人とも奈良出身です。

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こういう公演をみるのは、同年代のいまはない月吠の中谷英雄君(1948-2014 、享年66歳。)が以前早稲田大学奈良県校友会で、白塗りで踊ったのを見て以来のことでした。

2021年12月17日 (金)

医師であり郷土史家の喜多野徳俊氏のこと

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喜多野徳俊氏は、長年、奈良市中筋町で医師をされるとともに、郷土史家として多数の著書を書かれ、講演などもされていました。

わたしも奈良ロータリークラブでご一緒になりました。

幕末の奈良奉行である川路聖謨の講演を伺ったこともあります。興福寺五十二段の上にある川路聖謨の植桜楓の碑の下の方に、桜や楓を植える応援をした奈良の町の人の名前があることを教えてもらいました。その中に、松森長六という名がありわたしどもの先祖であろうとのことでした。

喜多野徳俊さんのご子息である医師の喜多野三夫さんに以下は教えていただきましたので紹介します。

「(父徳俊の)没後16年になるのに神奈川県の郷土史家の方から突然父の記事をウィキペディアに載せたい旨連絡あり情報著書提供しました。大変奈良の郷土史に興味造詣深く親父の著書半分以上お持ちでした。
先日投稿されました 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%BE%B3%E4%BF%8A

 喜多野徳俊の 検索でも見られます。」

とのことです。

喜多野徳俊さんは、先日閉店された豊住書店から多数の著書を上梓されています。郷土史は先日の大槻旭彦さんの「高畑町界隈」の本もそうですが、たいへん貴重なものであり、ともすれば消えていきがちな郷土史を書きつないでいくことが大切だと思います。

2021年12月15日 (水)

大槻旭彦さんの奈良新聞文化賞受賞の祝賀会へ

このほど大槻旭彦さんは著作『高畑町界隈ーその歴史と伝承』で奈良新聞文化賞を受賞されました。その祝賀会が、奈良市高畑町にある奈良ホテルで開催されました。まことにおめでとうございます。

お招きを受けましたので、奈良マラソンの応援のあと、出席させていただきました。
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表紙の絵は、平城宮跡での、元明天皇展や吉備内親王展などいろいろなところでイラストにお目にかかっている上村恭子さんの作とのこと、お話もできました。

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1部は、大淀町役場の学芸員の松田度先生と大槻旭彦さんのトークがありました。お二人は同志社大学の先輩後輩の間柄で、この本の出版にも松田度先生がお手伝いされたとのことです。

トークは

喫茶アカダマの話、お父様と多くの文化人や新聞記者の方などとの交流、春日大社とのつながり、南都楽所での活躍、中国西安や敦煌への演奏旅行の話、アカダマ会の話、奈良大学文学部文化財歴史学科での春日大社の研究、論文。50年来住んでおられる奈良市高畑町の話。この本を書かれるきっかけ、出版後の大きさに驚いたこと、などいろいろお話になりました。まだ3冊ほどの本の執筆中だということでした。


2部は祝賀会。


大槻さんのご挨拶
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そして、最初にわたしはご指名を受けましたので祝辞と乾杯の発声をさせていただきました。

奈良まほろばソムリエの名物ガイドの雑賀耕三郎さんに写真を撮っていただきました
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祝賀会の後、『高畑町界隈ーその歴史と伝承』にサインと捺印を頂き、記念撮影していただきました。

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発起人の生駒あさみさん、司会の新井忍さん、皆さまお世話でした。

本のことは、以前に鹿鳴人のつぶやきに書いております。⇒http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-9464d4.html

2021年12月11日 (土)

美ビットと見て歩き 101

毎月、奈良新聞で楽しみにしている川嶌一穂さんの美ビット見て歩き、いよいよ101回。新しいスタートです。

青森の三内丸山遺跡と是川縄文館です。

青森に行ったとき看板に三内丸山遺跡と大きく書かれていたのが印象に残っていますが、この7月に北海道・北東北の縄文遺跡群が世界文化遺産になったとのことです。

川嶌さんの美ビット見て歩きを読んで、縄文時代がだんだん身近になってきました。

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(画像をクリックすると拡大します)

美ビット見て歩き 私の美術ノート *101 川嶌一穂

 

青森市・三内丸山遺跡と八戸市・是川縄文館

 

写真 三内丸山遺跡内の大型掘立柱建物(著者撮影)

 

 3年前の夏、東京国立博物館で開かれた「縄文展」(本欄第65回)を見て以来すっかり縄文にはまってしまった私は、ずっと東北の縄文遺跡に行きたいと思っていた。宣言が解除されて、いいツアーを見つけたので喜んで参加した。
 東北新幹線新青森駅で下車すると、「北海道・北東北の縄文遺跡群」がこの7月に「世界文化遺産」に登録されたことを祝う看板があちこちに掲げられていた。駅からほぼ真南に2.5キロメートルほど行った所に三内丸山遺跡がある。

 私は「さんだい」と読み誤まっていたが、「さんない」と読むのが正しい。遺跡エリアに入ると、パーっと視界が開けた。低い丘陵に復元された建物が点在し、道路がゆるやかな曲線を描いている。この道路のカーブは縄文時代そのままだと聞いて、腰折れ歌が口を突いて出て来た。

この道を縄文人も歩いてた胡桃をいっぱいポシェットに入れて

 遺跡から出土した、5ミリメートル幅の樹皮を「2本越え2本潜り」の網代編みで編んだ小さな籠バッグの中にクルミの殻が残っていた。縄文中期と言うから四千年から五千年前のものだが、今でも十分通用する素敵なデザインだ。

 広大な敷地の周辺に栗、胡桃、栃など実のなる木が植えてあるが、遺跡から出土した栗はDNA鑑定の結果、栽培されたものであることが分かった。これはもう「狩猟採集」ではない。稲作でこそないが、「農耕」と言うべきではないだろうか。

 写真は、復元された建物遺跡の中でも圧倒的な存在感を示す高さ約15メートルの大型掘立柱建物。すぐ近くに「大型掘立柱建物跡」がある。すべて4,2メートル間隔の、直径・深さとも約2メートルの柱穴が6本発掘された現場を保存・展示する覆屋である。柱穴はそれぞれ内側に2度傾いていたことと、穴に直径約1メートルの栗の木の柱が残っていたことを基礎として再現したものが写真の大型掘立柱建物だ。国内ではもう直径1メートルの栗の木が手に入らないので、ロシアから輸入したという。
床とも天井ともつかない平面が3面作られているが、これは想像による復元である。

素人は考えるーこの高さへの強い意志には既視感がある。信州は諏訪大社の御柱である。現在の御柱祭と同じく、柱を建てる行為そのものに宗教的な意味があり、ここもおそらく柱のまま建っていたのではないか。
諏訪地方を中心にして信州には夥しい数の縄文遺跡がある。鏃(やじり)に加工された信州産の黒曜石が三内丸山遺跡で発見されている。諏訪周辺に残る御柱信仰が、歴史的にどこまで遡れるかは不明だが、古層文化の跡を留めていることは確かだろう。だとすれば、三内丸山と諏訪の縄文人が交易し、巨木を御神木として崇める文化を共有していた、などとどこまでも素人の妄想は広がるのである!
 木々の黄葉が青空に映えて美しい。いま遺跡は海から4キロメートル近く離れているが、縄文時代はここが海岸線だった。落ち葉を踏んで歩いていると、リスが一匹林から飛び出した。

 バスの車窓から、整然と植えられた可愛いニンニクの芽や、落ち穂をついばむコハクチョウの群れを見ながら、次の目的地である是川縄文館に向かう。
 百年前、資産家の是川兄弟が敷地内で土器を発見した。農閑期の農民の手間仕事として発掘を続け、後に出土品約五千点を八戸市に寄贈した。その間、兄弟は研究者が、出土品を持ち帰って研究したいと言うと、「先祖からの贈り物だから、研究するならここへ来てくれ」と言って断ったという。中央の権威付けを有り難がるのが人の常だが、何たる見識か。
 出土品を引き継いで、十年前に「八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館」として開館した当館には、国宝土偶5点のうちの1点「合掌土偶」が保管・展示されている。その他の展示品の質の高さと数の多さにも驚かされた。約600点の展示資料の8割が重要文化財に指定されている。ちゃんと残っている土器や太刀に塗られた漆の色が印象的だ。

 縄文研究はまだ始まったばかり。機会があれば、ぜひ現地に足を運んではいかがだろう。日本の古代観が変わること請け合いだ。

=新年1月はお休みを頂き、次回は2月11日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ
 特別史跡三内丸山遺跡 問い合わせは三内丸山遺跡センターへ。青森県青森市三内字丸山305。電話017(766)8282。青森空港からJRバスで約35分。JR新青森駅から徒歩30分か、バスねぶたん号に15分乗車。https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

 是川縄文館 青森県八戸市大字是川字横山1。電話0178(38)9511。JR八戸駅から土日祝日のみ南部バスで22分。https://www.korekawa-jomon.jp/

 

2021年11月28日 (日)

12月18日 大駱駝艦「クレイジーキャメル」in 奈良

奈良出身の鉾久奈緒美さんからの案内です。

麿赤兒さんは奈良出身というのは存じていましたが

鉾久奈緒美さんも奈良のわたしの同じ学校出身ということです。

(以下 鉾久奈緒美さんからのメール)

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大駱駝艦「クレイジーキャメル」奈良公演のご案内させて頂きます。

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(前から2人目が鉾久奈緒美さんとのことです)

2012年、パリで産声をあげ、ヨーロッパを熱狂させた「クレイジーキャメル」が奈良に上陸致します。
大駱駝艦の草創期を支えた金粉ショーへのオマージュ!
二人の女学生と一人の男子学生の人生を、ヴィヴァルディの“四季”にのせて紡ぐ愛と青春の舞踏絵巻をぜひご覧下さい!
奈良の地で青春時代を過ごした麿赤兒と私、鉾久奈緒美が二人の女学生をつとめます。
師走でお忙しいとは思いますが是非この機会をお見逃しなくご覧いただければ幸いです!

12/18(土)15:00開演
奈良県文化会館国際ホールにて
料金(全席自由)前売り4000円

http://www.dairakudakan.com/rakudakan/2021/CrazyCamel2021/CrazyCamel2021nara.html

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(左が鉾久奈緒美さん、右が麿赤兒さん)

2021年11月14日 (日)

祝 美ビット見て歩き 100回連載

奈良新聞の連載で毎月楽しみにしている、川嶌一穂さんの「美ビット見て歩き」が九年かけて100回を迎えました。

まことにおめでとうございます。

100回目のタイトルは「振り返ってみれば」とのこと。小さな頃から、美術が好きであったお父様に連れられて、正倉院展など見にいかれたとのことです。良い家庭環境に生まれられたと思います。以来70年が経ち、この一三〇〇年伝えられてきたことをさらに一三〇〇年後の子どもたちに伝えたいといっておられます。一三〇〇年後にいきなりは伝えられませんから、私たちはまず子どもや孫やさらに次の人たちに伝えていかなくてはいけないと思います。そういう壮大な歴史の一大局面ににわれわれは存在しているのだと思います。

ともあれ、川嶌一穂さんのご健康を祈念して、ますますのご健筆を期待したいと思います。

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(画像はクリックすると拡大します)


美ビット見て歩き 私の美術ノート *100 川嶌一穂

 

振り返ってみれば

 

写真 昭和28年ごろの法隆寺にて、両親と叔母と。

 

 9年前、平成24年10月の松伯美術館「つらつら椿展」で始まった本欄が今回で100回を迎えた。
振り返ってみれば、幼い頃から美術好きの父に連れられてよく展覧会や、お寺や神社を訪ねた。自分の好みがはっきりする前に色々見ることができたのは、今考えると貴重なことだった。

15日まで開催中の正倉院展には、昭和26年、2歳のときから行っているらしい。もちろんその頃の記憶はないが、物心ついてからも入場無料の「文化の日」に毎年家族で出かけた。無料の日でも旧館の小部屋一室に私たちの他に2、3組いるかいないかというほど人が少なかった。上から見る小さな展示ケースが並べてあって、いま地方の小さな美術館でそんなケースを見ると懐かしい気がする。
同じ日かどうか記憶が曖昧だが、木造建築だった旧県公会堂で開かれる県展にも毎年出かけた。縁側を通って彫刻や絵画が置かれた畳の部屋を次々に巡るのが楽しかった。帰りに東大寺南大門の東側にある小さな動物園で猿やホロホロ鳥を見たり、今から思えばけっこう危険なぐるぐる回る大きな遊具で遊んだりした。

小学校高学年の頃、中宮寺を訪ねたときのことは忘れ難い。新しい本堂ができるずっと前で、戸の閉まっている御殿には受付もなく、玄関で父が大きな声を出して拝観をお願いすると、一人の尼さんが案内して下さる。畳の部屋をいくつも通って、一番奥の部屋に国宝の菩薩半跏像が置かれていた。ちょっと離れた所に座っている尼さんに、父が「光背は…」などと質問すると、澄んだ声で答えられる。お像よりも美しいこの若い尼さんはどうして頭を丸めて尼さんになってしまったのだろう、なぜこんなに満ち足りた様子なのだろう、とわたしは子供心に不思議な気がした。

中学生になると、家族よりも友人と行動するようになり、一番よく出かけたのは近鉄学園前駅近くにできたばかりの大和文華館だ。今もそうだが展示室の真ん中に竹を植えた中庭があって、ガラス越しに見る緑が清潔で美しい。
時々クラスで先生が希望者に割引券を配ってくれる。そういう時は素早く手を挙げて入手した。正確な数字は忘れたが、通常なら250円のところ半額になるくらいの割引で、縦長の小さな薄っぺらい紙の券だった。
昭和37年の「近代日本画名作展」に出た菱田春草の『黒き猫』や速水御舟の『名樹散椿』に心ひかれ、展示された場所も覚えている。昭和40年の「近代日本洋画名作展」とともに印象深い展覧会だ。明治時代の名作をほとんどこの時期の大和文華館で見られたことが、その後のわたしの趣味嗜好を決定したかもしれない。

連載中は必ずこの目で見たものを書く、ということをルールにしてきたが、最近はこのご時世でそうも行かない回が出て来た。
緊急事態宣言の合間に一度だけ弾丸帰省して興福寺界隈を散歩したが、その晩はずいぶん久しぶりに朝までぐっすり寝た。1300年かけて先人たちが育んでこられた、数字に換算できない「奈良力」のお陰だろう。

若い頃は人並みに西洋文化に憧れたが、たまたま奈良に育ったことで、世界を見渡してもあまり類の無い多様な伝統の存在に気づくことができた。この「力」を1300年後の子供たちにもぜひ手渡さねばと、70歳を過ぎて切実に思うようになった。

最後になりましたが、画像をお借りしたり、様々な質問に答えて下さった美術館や、連載第1回から担当して下さったTさんはじめお世話になった方々に感謝申し上げます。
これからも気ままな「見て歩き」にお付き合いいただけたらうれしいです。

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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。
=次回は12月10日付(第2金曜日掲載)=

 

 

 

 

2021年10月11日 (月)

美ビット見て歩き ※99 吉野山

毎月楽しみにしている、奈良新聞の川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは99回。吉野山です。

春の桜の時期は有名ですが、桜の紅葉する11月もおすすめということです。

いま金峯山寺の仁王門は大改修中。蔵王堂も覆われている写真を拝見しましたが、中は拝観できるそうです。

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *99 川嶌一穂

 

吉野山

 

写真 花の吉野 写真=田中真知郎(土屋文明・猪股靜彌著『歌の大和路』昭和48年・朝日新聞社刊より)

 

 何と言っても花は桜、桜は吉野。上千本あたりから蔵王堂を遠望するその景色の美しいこと。夢みたい、といつも思う。吉野の次に好きな京都嵐山の桜の樹は吉野の樹の種から育てたという話を聞いては、やはり吉野の桜は何か特別なのだと思わされる。五十代の頃は、花の吉野へほぼ毎年通った。平地での桜が終わると、どうしても吉野に行きたくなるのだった。

出来るだけ朝早く出て、近鉄吉野駅からケーブルとバスを乗り継いで、まず終点の奥千本口まで行ってしまう。それから登り坂や崖道を歩いて西行庵まで足を延ばす。足元に深山酢漿(ミヤマカタバミ)が咲き、見守るように筒鳥が休みなく鳴いてくれる。  
苔清水に水はあるとしても、こんな山の中で三年間も、西行法師はいったい何を食べて生きていたのだろう。

なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山

桜に寄せる西行の歌は、800年以上の時の隔たりをまったく感じさせない。

5、6年前、久しぶりに訪れたら、途中の山道が丸裸になっていて驚いた。杉の木などを伐採して、桜に植替えているということだが、若木が少しは育っているだろうか。

 金峯神社まで戻って、あとは花を見ながら気ままに下って行く。必ずお参りするのは水分(みくまり)神社。慶長年間に豊臣秀頼により再建された社殿は、桃山の壮麗な装飾が400年の時を経ていい枯れ具合だ。
 13世紀、建長年間の墨書銘がある玉依姫命(たまよりひめのみこと)のご神像(国宝)が、笑くぼをたたえて社殿内のどこかに鎮座しておられるはずだが、これまでも、これからも、完全非公開。仏像は、時には博物館で拝観するのに慣れてしまった私たちは、日本古来の信仰の姿に改めて気付かされる。
 遠く、また近くの花を堪能しながらこの辺まで下ると、下から登って来る人が増えてくる。ああ、早く出てよかったと思う。

 当麻寺・中之坊、大和小泉の慈光院とともに大和三庭園の一つに数えられる竹林院の庭園・群芳園もぜひ拝見したい。こちらで吟行句会中の母とばったり出会ったことがある。お互い吉野に来ていることを知らずに、笑い合ったことだった。

 この辺から参道にお店も増えて、買い物を楽しんだりしているうちに、金峯山寺(きんぷせんじ)が見えて来る。高い石壇の上に建つ堂々たる二階建ての仁王門(国宝)が、お疲れ様!と迎えてくれる。
 残念ながら、現在仁王門は大規模修理中。門内の金剛力士像二体は、奈良国立博物館仏像館で、令和10年に予定されている修理の完成を待っておられる。石段を少し上がった所にある、秀吉・秀頼が再建した檜皮葺きの壮麗な蔵王堂(国宝)も整備工事中だが、堂内への参拝は可能だという。

 花の季節はバスの便があるので、その日の朝に思い立って出かけることもあった。いつかは紅葉の吉野を訪れたいとずっと思っているが、まだ果たせていない。半年ぶりに今月から緊急事態宣言が解除されたが、紅葉が見頃の11月にはどうなっているだろうか。

淑き人の良しと吉く見て好しと言いし芳野吉く見よ良き人四来三
(よき人のよしとよく見てよしと言いしよし野よく見よよき人よく見つ)

まるでおまじないのような天武天皇の御製がしきりに思い出される。
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

=次回は11月12日付(第2金曜日掲載)=

 

メモ 
吉野山 近鉄吉野線吉野駅下車。徒歩3分のロープウェイ(金土日月のみ運行)千本口駅から乗車、吉野山(山上駅)下車。路線バス(土日のみ運行)吉野山駅バス停から乗車、奥千本口下車。ロープウェイ、バスとも問合わせは、吉野大嶺ケーブル自動車。電話0746(39)0010。www.yokb315.co.jp
竹林院群芳園 庭園見学可(昼食は要予約)。電話0746(32)8081。
金峯山寺仁王門東側の県道は仁王門工事のため、10月21日(木)まで、月曜から金曜まで通行止め。問合せは、金峯山寺。電話0746(32)8371。

 

2021年9月22日 (水)

27日から今中和義作品展

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大和郡山市在住の今中和義さんの作品展が開かれます。

第一会場は奈良県文化会館にて。28日より。

もちいどのセンター街のギャラリーまつもりでは、27日より(30日は休み)。

いずれも10月3日まで開かれます。

 

 

 

2021年9月12日 (日)

美ビット見て歩き ※98

奈良新聞に連載されている美ビット見て歩きは98回。正岡子規の『病牀六尺』です。そういえば、9月19日は子規が亡くなった日です。

わたしも東京の根岸の子規庵は二度訪れています。(鹿鳴人のつぶやき⇒

子規が住んでいた子規庵は戦災で焼けたあと復元されているということでした。

机のあたりがかつてのように展示してありました。机の切れ込みは足を立てて座ったとのこと、切ないことです。

奈良市内にもかつての旅館対山楼あとの天平倶楽部に子規の庭があります。東大寺大仏殿や春日奥山が見えて借景がすばらしいところです。

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糸瓜棚です。

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子規庵には布団に伏せる子規の写真がありました。

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(いずれも写真は2017年10月14日。子規生誕150年の日撮影。)

 

美ビット見て歩き 私の美術ノート *98 川嶌一穂

 

正岡子規『病牀六尺』

 

写真 ワイド版岩波文庫『』の見返しに押した子規庵のスタンプ

 

 年に一、二回、どうしても読みたくなる本がある。正岡子規(慶応3年9月17日<1867年10月14日>〜明治35<1902>年9月19日)が新聞『日本』に、死が訪れる2日前まで書き継いだ『病牀六尺』である。いつも夢中になって読みふけり、やがて辛すぎて途中で閉じてしまう。

 父を早くに失った子規は、松山藩の儒者だった母方の祖父・大原観山に小学校入学前から漢文の素読を習った。観山は、「何ぼたんと教えてやっても覚えるけれ、教えてやるのが楽しみじゃ」と言って、可愛がった。生まれつきの天才というのはあるものだと、子規を読む度に思う。
 明治16(1883)年、叔父の加藤拓川(たくせん)を頼って上京し、翌年大学予備門に入学する。同級の夏目漱石と寄席の話をきっかけに親しくなったことはよく知られている。

 第一高等中学校在学中の21年にはじめて喀血。弱冠二十歳の若者が、翌年また喀血し、数年前から始めていた俳句で使用する号を「子規」とした。口の中が真っ赤で、「啼いて血を吐く」と言われるカッコウ科の鳥ホトトギスの、漢字表記の一つである。

 拓川の親友・陸羯南(くが・かつなん)の世話で、陸の起こした『日本』新聞に入社し、台東区根岸の陸宅の隣、現在の子規庵に亡くなるまで住んだ。

28年、陸も強く止めたが聞かず、日清戦争従軍記者として大連湾を訪ねて、帰路の船中で喀血する。以後、肺結核から来る脊椎カリエスを発症。悔やんでも悔やみきれない大陸行きだった。

 32年頃までは、まだ人力車で外出もしていたが、翌年は衰弱が激しく、子規庵での句会、歌会も中止となる。35年5月から「病床六尺、これが我世界である」と始まる『病牀六尺』を『日本』紙に連載し始めた。

 本格的な文学論あり、気ままな世間話あり、もちろん病勢の描写もある。「足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大盤石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫…。」動かすこともできない、むくんだ足の描写である。

 新聞社が病の進行を配慮して休載日を設けたとき、子規は「僕ノ今日ノ生命は『病牀六尺』ニアルノデス。毎朝寝起ニハ死ヌル程苦シイノデス。其中デ新聞ヲアケテ病牀六尺ヲ見ルト僅ニ蘇ルノデス」と、その日の休載を知って泣き出したと訴えている。

 死の直後、母八重、妹律(りつ)と一緒に、子規の苦悩したままの寝姿を真っ直ぐに直そうとした時、母が「サア、も一編痛いというてお見」と涙をポタポタ落としながら言ったと、俳句の弟子・河東碧梧桐が伝えている。

 写真は、平成20(2008)年にはじめて庵を訪ねたときに購入した『病牀六尺』に押した庵のスタンプ。現在の庵は、昭和20(1945)年4月の米軍機による空襲で焼失した後、弟子たちによって庭と共に復元されたもの。写真では見にくいが、子規がまだ座って仕事ができたとき、脚を固定するため机に大きな切れ込みが入っている。

 以来、上京するとなぜか自然と足が向き、訪れるようになった。子規の故郷の四国松山にも何度も足を伸ばした。子規が転がり込んだ松山中学在任中の漱石宅・愚陀仏庵も、平成22(2010)年の土砂崩れで全壊する前に訪れることができてよかった。

 柿の実が色づく頃には、東大寺転害門近くの「子規の庭」を再訪したい。従軍後、帰京途中に奈良に寄った折に宿泊した対山楼の跡地である。はじめてお邪魔した時はその見事な借景に驚かされた。

 19日は没後120年祭となる子規の命日である。

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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

=次回は10月8日付(第2金曜日掲載)=

メモ 子規庵 東京都台東区根岸2−5−11。JR鶯谷駅から徒歩5分。現在コロナ禍で休庵中。https://www.shikian.or.jp/

子規の庭 奈良市今小路町45−1。天平倶楽部内。近鉄奈良駅から「州見台八丁目」行き奈良交通バス3分乗車、「今小路」下車、徒歩2分。電話0742(27)7272。レストランは9月15日まで休業中だが、庭は見学可(鹿除けのすだれを移動して入る)。

https://www.tempyo.com/

http://shikinoniwa.com/about.html

 

 

 

 

 

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