奈良の茶粥は「飯屋の元祖」 江戸で大流行の郷土食追う
先日、奈良民俗文化研究所の鹿谷勲代表の記事が日経新聞に載っていました。
日経新聞有料電子版を紹介させて頂きます。
奈良の茶粥は「飯屋の元祖」 江戸で大流行の郷土食追う
鹿谷勲(奈良民俗文化研究所代表)
カバーストーリー
2023年7月26日 2:00 [有料会員限定]
茶の渋みと米の甘さが混じり合い滋味深い
煮出した番茶で米を炊く茶粥(がゆ)は奈良の郷土食だ。ハレの食べ物に対するツネの食事であり、庶民が家庭で作るものだけにまとまった研究は少ない。しかし聞き取りと文献調査を進めると、一地域に留まらない歴史的な広がりが見えてくる。
大阪で育った私が初めて茶粥を食したのは昭和50年代、奈良県職員として民俗文化財の調査で東吉野村に赴いたときだ。ごちそういただいた西上家の茶粥は茶の渋みと米の甘さが渾然(こんぜん)一体となり、さらりとした食感。不思議なおいしさが心に残った。県立民俗博物館へ異動になった2005年、研究対象としてふと浮かんだのが茶粥だった。退職後に立ち上げた奈良民俗文化研究所でも調査を続けて今に至る。
茶粥の作り方は実に多様だ。土地の特徴と家庭の経済状況によって、米だけでなく麦を入れたり雑穀を入れたり、旬のものを使ってそれぞれに工夫を凝らす。茶は木綿や麻でできたチャンブクロ(茶袋)に入れて煮出し、米を入れるときに取り出すことが多いが、そのまま炊く家庭もある。チャガイ、オカイサンなど呼び方もさまざまだ。
奥の白い袋がチャンブクロ。竹製のチャンブクロ(右上)もある。
実態が見えてくると、歴史的な流れも少しずつ分かってくる。茶粥は明暦の大火(1657年)の後、江戸では粥ではなく飯のかたちをとり、「奈良茶飯」として大流行した。茶飯を出す店は「飯屋の元祖」、すなわち日本の外食産業の始まりと位置づけられている。茶飯を盛る蓋付きの茶碗(わん)は「奈良茶碗」と呼ばれ、有田などの磁器産地で製作された。奈良の民俗食が、江戸の流行食となり、その影響が九州まで及ぶ珍しい事例だったのだ。
一方で新たな疑問も生じた。それは粥と飯の関係だ。奈良茶飯は江戸で「奈良茶」とも呼ばれた。しかし文献を探ると、茶飯も奈良茶、茶粥も奈良茶と、粥と飯の混同が見られる。なぜなのか。
謎を解く手がかりとなったのは、東大寺のお水取りだった。僧侶たちはその日の行を終えると、夜食に茶粥を食す。練行衆の世話をする童子さんは、茶を10時間も煮出して炊いた粥から、米の一部をすくい上げておひつに入れておく。僧はおひつの米を食べても、鍋の粥を食べても、米に粥をかけて食べてもよい。茶粥と茶飯が未分化な食べ物として存在していた。
さらに近世の料理本から、「奈良茶」は茶飯流行以前に穀類の入った新しい茶として登場し、徐々に飯として分類されるようになったことも分かった。粥も飯も出は同じであるお水取りの茶粥の事例や、料理本にうかがえる茶から飯への変遷は、江戸での粥・飯の混同とつながっていよう。
こうして茶粥と茶飯の関係に迫ることができたのは一つの成果だ。21年には『茶粥・茶飯・奈良茶碗』(淡交社)を刊行、茶粥の起源について新たな説を掘り起こすなどもした。だが全てが明らかになったわけではない。
そもそもなぜ江戸では粥ではなく、飯が流行したのか。ひとつ考えられるのは、江戸では粥に貧者のための炊き出しのイメージがあることだ。上方ブランドの流行食としては、飯のほうが印象が良い。店で出す際に炊き置きしやすいとの事情もあったのではないかと推測している。どんな経緯で茶粥が江戸に伝わったのかも解明したい。滋味深く、奥の深い茶粥の探訪はまだまだ続く。(しかたに・いさお)
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