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2022年12月13日 (火)

美ビット見て歩き *112 森鴎外

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今年は,森鴎外の生誕160年、没後100年でした。

森鴎外は奈良五十首の短歌を残しています。また津和野出身で、森林太郎として亡くなりたいといいます。わたしは島根県の津和野に2度行き、森林太郎と墓標が書いてあるお墓にお参りしました。川嶌一穂さんの美ビット見て歩き112回は森鴎外です。

 

 

美ビット見て歩き 私の美術ノート *112 川嶌一穂

 

鷗外の奈良時代―平山城児著『鷗外「奈良五十首」を読む』

 

写真 実地踏測奈良市街全図(東大図書館鷗外文庫蔵・平山城児著『鷗外「奈良五十首」の意味』笠間書院刊より)

 

 鷗外・森林太郎は文久二年(1862)、石見国(島根県)津和野町に、代々津和野藩主亀井家の御典医を勤める家の長男として生まれる。文久二年はペリーが来日して九年、明治維新まであと六年という年である。明治四年(1871)の亀井藩廃藩の翌年、父とともに十歳で上京し、大正十一年(1922)に六十歳で亡くなった。

 規定の年齢に達していなかったので二歳年齢を偽って十一歳で、後に東京大学医学部となる第一大学区医学校予科に入学する。十九歳で卒業して以来、陸軍軍医として四年間のドイツ留学や日清戦争、日露戦争の戦地派遣を経験し、四十五歳で陸軍軍医総監となる。ちなみに次に軍医総監になったのは、画家藤田嗣治の父・嗣章である。

 九年間勤めた陸軍軍医総監を五十四歳で辞任し、翌大正六年(1917)に帝室博物館総長兼図書頭に就任する。
 帝室博物館総長には、毎年十一月に行われていた正倉院曝涼のさいに、倉の開閉封に立会い、その間の事務を監督するという役目があった。鷗外は大正七年(1918)から計五回、毎年秋の奈良に約一か月滞在し、亡くなる年・大正十一年(1922)に「奈良五十首」を発表した。つまり「奈良五十首」は、鷗外最晩年の、そしてまた私の「無人島に持って行く本」である『渋江抽斎』などの、いわゆる史伝物を書き継いでいる時期の作品である。

 写真の奈良の地図は、東大図書館鷗外文庫所蔵の大正七年発行「実地踏測奈良市街全図」の一部である。博物館総長として奈良に赴任したときに鷗外が買い求めた地図だろう。何とこの地図には裏打ちがされ、和紙で厚紙をくるんだ表紙まで付けられている。

 『渋江抽斎』にも「序(ついで)だから言ふが、わたくしは古い江戸図をも集めてゐる」とあるように、鷗外は地図が好きだった。明治四十二年(1909)春陽堂刊行の「東京方眼図」は、左上の囲みに大きな文字で「森林太郎立案」と書かれている。地図上に方眼が描かれ、縦の欄外に一から十一までの数字と、横の欄外に「い」から「ち」までの文字が振られている。今では当たり前だが、地名を地図上で探すには、別紙の索引に添えられた数字と文字を辿るという仕組みである。鷗外が留学した当時、ヨーロッパの地図には同じような方眼が描かれていて、それを参考にしたものだろう。

 写真では見にくいが、右下のあたりに「博物館事務所」と「博物館官舎」という鷗外手書きの文字が見える。現在は、官舎の門だけが奈良国立博物館の東北の隅に残っている。

 五十首は、京都に着いて古本屋漁りをするところから始まり、奈良へ行く車中、奈良の風景、正倉院、奈良の古寺訪問、当時の社会詠、奈良を去る歌の順に編まれている。それは一度の旅で詠まれた連作のようだが、『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)の著者・平山さんは、詳しい調査の上、鷗外が四回にわたる奈良滞在の間に作った歌を再構成したものだと考定された。

 鷗外が奈良から東京の次女・杏奴に宛てた大正八年(1919)十一月十一日付けの葉書に「今日は午(ひる)ごろから雨がふつたのでおくらをしめて、大安寺といふ昔の寺へゆきました…」とある。晴れていれば鷗外は博物館事務所に詰めている。気ままに奈良の街へ出るのは雨の日に限られていた。

晴るる日はみ倉守るわれ傘さして巡りてぞ見る雨の寺寺(森鷗外『奈良五十首』。以下同じ)

 よく知られているように、亡くなる三日前に友人に口述筆記させた鷗外の遺書に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス…宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ」(当時、帝室博物館は宮内省所管)とある。博物館総長にせよ、陸軍軍医総監にせよ華々しい経歴はおいて、また文学の号である「鷗外」でもない石見人、森林太郎としてこの世を去る、と言うのである。
十歳で上京して、戸籍も移した。実家は人手に渡り、その後一度も石見に帰っていない。

わたしの勝手な想像だが、これには最晩年の五年間、毎年秋のひと月、奈良に滞在したことが影響していると思う。晩秋の雨の奈良には、栄耀栄華とはまた別の時間が流れていて、石州瓦を葺いた家々が川沿いに並び建つあの美しい津和野に、鷗外を連れ戻したのだ。その意味で、鷗外が博物館総長に就任して、本当によかったと思うのである。

  奈良山の常盤木はよし秋の風
木の間木の間を縫ひて吹くなり

 

  夢の国燃ゆべきものの燃えぬ国
木の校倉のとはに立つ国

今年は鷗外生誕百六十年・没後百年だった。

 

=1月はお休みを頂いて、次回は令和5年2月10日付(第2金曜日掲載)=
  ・・・・・・・・・・・・・・・
かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ 平山城児著『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫・2015年)参照。『鷗外「奈良五十首」の意味』(笠間書院・昭和50年)の改訂増補版。

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