竜在峠へ 歌会の友と
大海人皇子(のちの天武天皇)が飛鳥から吉野へ壬申の乱の時抜けたという峠にはいくつかの説がありますが、アララギ派の代表である土屋文明先生は何度も歩かれ「万葉集私註」で竜在峠こそがその峠であると書いておられると言うことです。歌人、小谷稔先生もその説に賛成して何度も竜在峠をこえておられます。力作の「明日香に来た歌人」でも書かれています。
そこで11月26日、晩秋に新アララギの生駒歌会のメンバー9名で冬野から歩いて竜在峠まで往復して訪ねてきました。
冬野集落(良助親王墓前)を出発。
歩いてしばらくして見かけた案内板です。道しるべ、です。
あとはひたすら歩いて見かけた案内板です。あと300m。
むかしの茶屋跡。ここで昼の美味しいお弁当を食べました。
ここに、歌人 小谷稔先生自筆の説明板があり、ここをまずは目標として歩いてきました。
(画像はクリックすると拡大します)
江戸時代の本居宣長の竜在峠の説明です。三重県松阪から吉野へ道中した時とのこと。「菅笠日記」の一節の案内板です。
さらに300m、本日の目標の竜在峠(標高725m)に到着。折り返し地点です。
紅葉が美しい山道でした。
明日香に戻ってきて見た秋の空です。雲が美しく広がっています。
歌人 小谷先生の歩かれた道を訪ねた思い出に残る一日となりました。
(追記)
一緒に行ったMさんから写真と端的なレポートをいただきました。ありがとうございます。
「今日は中・高時代の古文の先生でもあり、短歌の師でもある故小谷稔先生の「明日香に来た歌人」(文芸社)の中で紹介されている明日香の竜在峠を訪ねました。歌会の仲間の中では私が最年少😁少々の山道は楽勝~と思っていたら、皆さん健脚で驚きました。
万葉集の「み吉野の耳我の嶺に 時なくぞ雪は降りける…」という大海人皇子(天武天皇)の御製にみえる耳我の嶺は、この竜在峠ではないか、という説を土屋文明が唱えた、そのことを小谷先生の筆で書かれた板が峠近くの茶屋跡に残っています。
大海人皇子がこの道を通って明日香から吉野に逃れたのかも…と思うと感慨深い。イノシシの爪痕やシカのフンやモグラの穴はあちこちに見られるけれど、鳥の声さえめったに聞こえない、まさに森閑とした山道でした。」
(追記2)三度も下見にいってお世話いただいたHさんから写真が届きました。ありがとうございました。
毎日新聞、「万葉古道」を尋ねて96より。
上、竜在峠。古い戦没者の墓、住居跡の平坦地もある
下、桜井市の多武峰から来て右方の竜在峠へ延びる道
=明日香村冬野で
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