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2022年10月16日 (日)

美ビット見て歩き*110 行基さん大感謝祭

 

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奈良新聞14日付の毎月楽しみにしている、川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは、110回目。

11月20日の行基さん大感謝祭の1枚のチラシから、行基さんのことをくわしく書かれています。

さすがです。ありがとうございます。

(画像をクリックすると拡大します)

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *110 川嶌一穂

 

僧行基(天智七<668>年〜天平二十一<749>年)

 

写真 「祝一三五四歳。行基さん大感謝祭」チラシ

 

 近鉄奈良駅が地下にもぐったのはいつだったか、ウィキペディアで調べてみると、昭和44年(1969)、わたしが大学に入った年のことだ。そう言えば思い出す、翌年の大阪万博の開催を控え、上本町駅が終点の近鉄線が難波まで延びて、大阪に行くのが飛躍的に便利になった。
 地上駅の跡に、行基像の立つ、お椀を伏せたような噴水が出来た。それ以来いまに至るまで、奈良駅での待ち合わせは「行基さんの前で」が定番である。最近は広場を覆う透明の大屋根ができて、雨の日の待ち合わせも快適だ。

どういう経緯で、行基の像が据えられたのだろう。日本経済新聞電子版(2016年6月18日付)に、「近鉄奈良駅前の行基像に<クローン>」という記事がある。それによると、駅再開発時に当時の鍵田忠三郎市長が、「行基の精神を引き継ぎ、街のシンボルにしたい」と、赤膚焼の大塩正人(七代)さんに制作を依頼したという(現在の像は、ブロンズ製の三代目)。思えばユニークな市長だった。鍵田市政のあいだ、我が家の味噌は母が「みそ会館」で作ってきた手作り味噌だった。美味しかったがよくカビたので、丈の高い、傘立てのようなみそ専用の壺まで買った。

 しかし奈良の玄関口に、なぜ聖武天皇でも重源でもない、行基の像だったのだろう。わたしが行基と聞いて思い浮かぶのは、東大寺大仏建立の勧進、元興寺屋根瓦の行基葺き、柔らかい餅を繋ぎ合わせたような行基図、それとため池くらいのものだ。
もう一つ、大人になって気ままな旅をするようになって、あちこちで行基開祖という寺や、行基が彫ったという仏像に出会った。実に行基ゆかりの寺院は、北海道から熊本まで千四百か寺にも及ぶという。

伝承には何らかの意味や背景がある。後に東大寺再建の勧進に尽くした重源は、行基の再来を自ら演出し、各地で池の改修や架橋事業を展開した。貧民救済などの社会活動を展開した叡尊も、行基の影を慕って、既に廃絶していた行基建立の寺院を再興したという(佐藤文子『誰が「行基伝説」を語ったか?』週刊朝日百科「仏教を歩く」)。伝説の広がりには、中世の僧の活躍があった。

東大寺二月堂のお水取りで読み上げられる「過去帳」での順番には驚いた。日本全国の天神地祇、御霊に至るまでの諸神を勧請するために奉読される「神名帳」とは別に、草創以来の東大寺、とくに二月堂にゆかりの深い人の名を記した巻子本(鎌倉時代末まで。以降は冊子本)で、有名な「青衣女人(しょうえのにょにん)」の一句も含まれる人名帳である。

「過去帳」冒頭の部分はこうだ。「大伽藍本願聖武皇帝 聖母皇太后宮(藤原宮子) 光明皇后 行基菩薩」。その後は「本願孝謙天皇 不比等右大臣 諸兄左大臣 根本良弁僧正 当院本願実相和尚 大仏開眼導師菩提僧正」と続く。行基は実に四番目、いま考えられている以上に、東大寺創建に大きな働きをした証だろう。

しかし実際の行基の働きはよく分からない。行基五十歳、「小僧(しょうそう)行基と弟子らは巷に連れ立ってみだりに罪福の因果を説く」と、名指しで僧尼令違反を糾弾される。その行基が、近江紫香楽宮での大仏造立を発願された聖武天皇の意に沿う形で、勧進に携わり、七十八歳にして大僧正に任命される。すでに紫香楽の甲賀寺で造立工事が始まっているのに、任命された年、天平十七年(745)に、平城京に遷都。四年後、平城京での東大寺大仏像の完成を見ることなく、奈良市菅原の菅原寺(喜光寺)で病を得て、八十二歳で没した。

写真にある行基菩薩座像(唐招提寺蔵。鎌倉時代作彩色木造。重要文化財)は、生駒市にある行基の眠る竹林寺の所蔵だったが、廃仏毀釈で衰退したため、本寺の唐招提寺に移された(竹林寺は現在整備されて唐招提寺が管理)。胸元から釈迦苦行像にも似た痩せたあばら骨を見せて、意志の強さを隠せない笑みをたたえている。実際にこんな人だっただろうなと思わせるお像だ。

先ほど挙げた「過去帳」には、菩提僊那の後、仏師、鋳師(いもじ)、大工の名前が記され、続いて「材木知識五万一千五百九十人 役夫知識一百六十六万五千七十一人 金(こがね)知識三十七万二千七十五人…」と、寄進する名も無い人々の人数が記される。
当時の官民の関係が今とどう違うのか分からないが、創建当初の姿を留めている、例えば大仏坐像の蓮弁に線刻された菩薩群図を思い浮かべてみる。幼児のようにふっくらとした頬の線、現代美術には見られない清新の気あふれる溌剌とした表情に、良きものを国を挙げて創ろうとする何とはなしの共同意思を感じる。まさにその中心に、全体像をつかもうとしても到底歯が立たない、高齢でとびきり元気な行基の存在があったのだろう。

 

=次回は11月11日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

メモ 「祝一三五四歳。行基さん大感謝祭」が、11月20日(日)12時から16時まで(予定)、春日大社境内飛火野ほかで開催されます。詳細は「行基さん大感謝祭」公式ホームページ http://www.gyoki.jp/

 

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