美ビット見て歩き 108
奈良新聞で毎月楽しみに読んでいる川嶌一穂さんの美ビット見て歩き、8月は「山本有三邸と接収」展です。東京三鷹市の『路傍の石』で知られる作家山本有三の大きな家が戦後米軍によって接収されたそうです。そして奈良の米軍の接収の様子も書かれています。
奈良の米軍の進駐軍がいたのはわたしたちの幼少のころですが、わたしたちの記憶に残っています。
はからずも川嶌さんとの今回のやりとりで、わたしのことも文中に紹介されました。ありがとうございました。
高畑町や水門町の大きな家が接収されていたこと。高畑町の志賀直哉邸も接収されていたそうです。
今はなくなったドリームランドのあった場所は、戦後、米軍の高級将校の住宅地であったこと。
紀寺町のかつて通っていた中学高校(奈良女子大附属中学高校、いま附属中等教育学校)はまさに進駐軍のあとでした。
講堂は昔のシアター(映画館)であり、ボーリングの1レーンも残っていた木造の体育館がありました。
教室はもと米軍の建物を改造した建物にありました。
その他にも、中学に入学した頃はかつての米軍の名残がたくさんありました。(1961年頃)
いまの紀寺団地には、セスナ機用の滑走路あともあったとのことです。
最近出版された「奈良町の南玄関」(京阪奈情報教育出版)にも載っています。
かつての古い校舎があったところは現在天然芝のサッカーのグランドになっています。
そして現在の校舎がある場所はかつてのA地区グランドで、現在は鉄筋の立派な校舎が建っています。
ことしは戦後77年目の夏ですが、伝えていかねばならない大切な歴史だと思います。
美ビット見て歩き 私の美術ノート *108 川嶌一穂
東京都三鷹市山本有三記念館「山本有三邸と接収」展
写真 山本有三記念館(太宰治が愛人と入水した現場に近い・著者撮影)
もう五十年以上も前のこと、東京で大学に通っているとき、家庭教師のアルバイトを始めた。JR中央線の荻窪駅からほど近い、落ち着いた住宅街の中にあるお宅に週一回通ったが、その折に生徒のお母さんから聞いた話では、戦争中その界隈は空襲に遭わなかった。終戦後に駐留米軍の将校ハウスにするために、焼かずにおいてあったらしいということだ。
私は心底驚いた。もしそうだとしたら、藁人形を竹槍で突いたり、バケツリレーで消火したりする訓練をしていた日本人。片や戦後日本に進駐する軍人の住宅地をどこにするかを決めて、細かく線引きして空襲を実施していたアメリカ。何たる違い!泣けてくる。
その荻窪からも近い三鷹市山本有三記念館で「山本有三邸と接収」展開催中、という小さな記事を見つけて先日行って来た。
三鷹駅で降りると、江戸時代初期に開削され、江戸市中へ飲料水を供給した玉川上水の緑が見える。上水に沿って下流に歩くと、東欧あたりの農家とも、ドイツ表現主義住宅とも見える折衷的なデザインの洋館が見えてくる。『路傍の石』で知られる山本有三が、昭和11年(1936)から21年まで家族と暮らした家である。
内装は木や石の自然素材が多用され、細部まで凝ったデザインがすばらしく、明るくて住みやすそう。洋館だが、二階には和室も設えられていた。
十分な部屋数と水洗トイレ、暖房などの設備を備えた山本邸は、昭和21年、占領軍関係者の住居として接収された。長女の永野朋子が接収にまつわる思い出を語っている(「記念館館報」24号)。
「とうとう接収が決まってしまった。…間組が改修工事を担当することになり、進駐軍の若い将校が靴のまま上がり込んで来て、一部屋一部屋改装の指図をして回るのを、悔しい思いで見守るしかなかったのである。」
「…昭和二十六年の暮に返還になった。うれしいことだったが、あちこちペンキが塗られたり、かなり手を入れられていたので、父はもうそこに住む気になれなかった。」
否やもなく、安い賃料で接収され、原状回復して返還するという規定もなかった。返還後、有三は二度とこの家に住むことはなかった。
一戸の接収住宅に、一つの家族の歴史がある。いったい日本全体で何戸の住宅が接収されたのだろう。
昭和20年(1945)8月14日に日本政府が受諾を通告したポツダム宣言の執行のために、8月28日に進駐を開始したアメリカ軍とイギリス連邦軍の数は、20年末で43万人を数える。進駐したその日から一人一人に寝る場所が要る。進駐初期は民間のホテルや公共建築が接収の対象となったが、11月には東京地区で700件の候補住宅リストの提出が命じられた。山本邸もそのリストに載った。
翌21年1月には、既存住宅の接収では足らず、「占領軍家族住宅」2万戸(国内1万6千戸、朝鮮4千戸)の建設命令が占領軍から出される。家具、什器、家電製品を含めた話である。日本政府の戸数削減要求に応じて、1万戸に減らされたが、最終的に建設された総戸数は1万3千戸余りに上った。
戦時中の都市大空襲により、日本の住宅は3分の1が消失し、住宅を失った日本人は420万人いた。さらに20年は冷害や風水害による大凶作の年で、日本は食糧危機に見舞われていた。
そんな中、20年9月に米国務省の発表した、占領軍の必要とする物資と労働力の調達は日本政府が提供する、という「対日方針」に従って、住宅調達・建設も含めた占領軍向け支出は、21年度一般会計予算の実に3分の1を占めた。
奈良の場合はどうだったのだろう。奈良には、占領軍第8軍団第25歩兵師団が進駐し、まず奈良ホテルが20年9月28日に接収された。接収は27年6月30日に解除、翌7月5日に営業を再開した(奈良ホテルのHPによると、営業再開は8月)。
また奈良の占領軍家族住宅は、25年10月の時点で、新築64戸、改築47戸の計111戸が統計に上がっている。
中学高校の先輩で、奈良まほろばソムリエの松森重博さんにお尋ねすると、やはり高畑などの大きな家が接収されたらしい。奈良ドリームランドは、米軍将校用の住宅地が建設された「黒髪山キャンプサイト」の跡地に建てられたとのこと(奈良県立情報館のHP「戦争体験文庫」に建設中の写真あり)。
筆者は鼓阪小学校在学中に、音楽の北中先生率いる器楽バンドの一員として、ドリームランド開場記念式典に出席して何曲か演奏している。式典に参加した大人たちは、米軍施設が返還された喜びにも浸っていたのかもしれない。
昭和26年(1951)9月8日に日本政府が調印した「サンフランシスコ平和条約」が、翌27年4月28日に発効したことにより、7年間に及ぶ占領は終わりを告げた。実質3年半の戦時期の倍の長さだった。
=次回は9月9日付(第2金曜日掲載)=
・・・・・・・・・・・・・・・
かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。
メモ
東京都三鷹市山本有三記念館。 東京都三鷹市下連雀2−12−27。電話0422(42)6233。JR中央線「三鷹駅」南口より徒歩10分。会期は9月4日(日)まで。月曜休館。https://mitaka-sportsandculture.or.jp/yuzo/
参考図書 大場修編著『占領下日本の地方都市』2021年・思文閣出版。小泉和子他著『占領軍住宅の記録(上)』1999年・住まいの図書館出版局。
« 令和4年度『第63回奈良大文字送り火』行事について | トップページ | 佳山隆生氏の奈良グルメベスト20の第3弾 »
« 令和4年度『第63回奈良大文字送り火』行事について | トップページ | 佳山隆生氏の奈良グルメベスト20の第3弾 »



コメント