散歩日和 奈良凸凹編 興福寺周辺5
興味深く読んでいた興福寺周辺の最終回です。以下は毎日新聞有料電子版より。
奈良凸凹編 興福寺周辺/5(奈良市) 歴史の起伏とともに
毎日新聞 2022/6/3 大阪夕刊 有料記事 1685文字
近鉄奈良駅から周辺をウロウロして、ついに興福寺へ。猿沢池の東端の石段を上る。鹿たちがたむろしている。率(いさ)川が浸食した斜面にある石段を上ると南大門跡だ。
復元された基壇の前に広場がある。春日大社と興福寺を一幅に描いた室町時代の「春日社寺曼荼羅(まんだら)」にも、南大門の前に広場がある。
「薪能は興福寺が元祖で、昔から今に至るまで、この広場で薪能が行われています」と梅林秀行さん。その始まりは平安時代の869年と伝わる。また、裁判や行政処理もここで執り行われていたという。「門前の広場が芸能の場であり、司法や政治の場でもあった。中近世の宗教都市・奈良の中心です」
基壇から南を見下ろす。猿沢池がなぜ、この場所に造られたか、わかる気がする。天子南面。南の美観は大事だったのだ。「政治的な風景もありました。重要な人物は基壇に座ってますから」。えらい人は高い所から世を見下ろすわけだ。
ここまで歩いてきて、奈良が意外に凸凹(でこぼこ)してるのがわかった。興福寺の建つ断層、元林院(がんりいん)町のある谷……。南大門跡から興福寺を眺めると、平地だ。「従来は、藤原氏が一等地に建てたといわれてたんです……」と梅林さんが言葉を切る。
大化の改新でおなじみの藤原鎌足を祖とし、息子・不比等が天皇の外戚としての足場を固め、栄耀(えいよう)栄華を誇った藤原氏。興福寺は平城京に都を移した710年、不比等がこの地に建てた氏寺だ。
「ところが1990~2000年代の発掘調査で、谷を埋め、山を削って地形を変えていたことがわかったんです。センセーショナルでしたねえ」
正面に見える中金堂は2018年に再建された。焼失を繰り返し、7度も再建されたにもかかわらず、基壇は創建当初の形が踏襲されていたことがわかっている。「その基壇は、盛り土ではなく削り出しだったんです」。ということは、この土地はもっと高かったのだ。地形の大改変を行ってまで、ここに興福寺を建てたかったのだ、この時代を差配した権力者・藤原不比等は。
境内を横切って、北西の北円堂へやって来た。ここは東向商店街から上がる、きつい坂の上に当たる。八角形の北円堂は、不比等を弔うために建てられた。その南の西金堂(跡地)は、不比等の娘の光明皇后が、母の橘三千代を弔って建てた。
「つまり、西側一列は藤原氏ライン。対して東側は聖武天皇・光明皇后ラインなんです」。東側の東金堂は、聖武天皇が伯母にあたる前天皇・元正の病気快癒を願って建てた。五重塔は光明皇后の発願による。「東金堂、五重塔は焼けても焼けても再建される。聖武は仏教の祖師の一人ですから。ここは奈良時代の縮図ですね」
建物の配置から、時の権力者のパワーバランスが読み取れるのだ。その中にあって異質なのが、西側ラインの南に位置する南円堂だ。ほかにはない石灯籠(どうろう)や百度石があって、庶民仕様になっている。
先にも紹介したが、ここは庶民がこぞってお参りに訪れた。なぜか? 「観音がまつられていて、女性や被差別民らマイノリティーをも救ってくれた。そんな観音には、ふさわしい地形があるんです」。梅林さんが南円堂脇の石段を下り、南円堂の下に出る。見上げると、高台の上に建っているのがわかる。
「観音の聖地は岩山の上にあります。二月堂も京都の清水寺もそう」。そして、ここは猿沢池を見下ろせる。起伏ある奈良を象徴する地。
南円堂の西には三重塔がひっそりと建っている。鎌倉時代初期に建てられた、興福寺で最古の建物。崇徳天皇の后、皇嘉門院が建てた。「実にきれいな塔です。なぜ、この場所に建てたのか? 僕は、観音の隣だったからだと思いますね。そして穴門があり、その先には女性の町・元林院町がある。つながりますね」
奈良の凸凹は、平城京の権力から庶民、そして女性の信仰までつないでいるのだ。【松井宏員】=次回は東大寺<1>。17日掲載。
■人物略歴
梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)さん
京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大非常勤講師。著書に「京都の凸凹を歩く1・2」(青幻舎)。
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