散歩日和 興福寺周辺3
とてもおもしろい連載がはじまっています。散歩日和、奈良凸凹編。
毎日新聞夕刊に連載されている 興福寺周辺は3回目。
もちいどのセンター街、橋本町、元林院町、猿沢池、率川(いさがわ)あたりです。
切れ切れでちょっと読みにくいと思いますので、以下文は毎日新聞 有料デジタル版より。
猿沢池の元とは何か? 梅林秀行さんが「もちいどのセンター街」を歩きながら、「東向商店街も緩い下り坂になってました。ここも下ってますよね。なぜ坂道になっているか」。
しばらく行くと、平らな所に出た。そこから先は上り坂になっている。つまりここは……。「谷底です。緩やかなV字谷」。そう言って梅林さんはセンター街と交差する細い道を指す。「蛇行してますよね」。もしかして川?
「そうです。率(いさ)川といって、今は暗渠(あんきょ)になってます。この川が谷を作った。そして、この川をせき止めて猿沢池を造ったんです」
率川の上を東へ歩く。川沿いにしゃれた飲食店などが並ぶ。「ここを僕は奈良の裏原宿と呼んでるんです」。裏原は流行ファッションの発信地。だいたい、古い建物は川に背中を向けているものだが、ここは違う。「川の跡は最後に開発されるから、世界中どこも、川の跡には若者が集まってくる。若者文化を知りたければ、川の跡へ行くこと」。また一つ、梅林さんの散歩術が開陳された。
正面に猿沢池の土手が見えてきた。「あの斜面がダムですね。平城京のダムを目の前に見てるわけです」。その手前に小さな橋があり、絵屋橋と刻まれている。興福寺の絵師たちが住む絵屋町に通じていたからだ。
ダムの石段を上がると、猿沢池が広がっている。左手に興福寺の建つ崖。南円堂の八角の屋根が見える。池は崖の下にあるのがわかる。「あの崖は率川が削った浸食崖ですね」。猿沢池が人工の池とは知らなんだ。自然にできたような顔をしてますけど。
「なんで、ここに池を造ったか。興福寺の南の庭園と考えたからです。放生池を兼ねていました」。放生池に亀や魚を放って、命を助けることで慈悲の実践とした。「なんとなく正方形でしょう? 都の区画の方形に合わせて造ったからですね」
ここで梅林さんが、大正時代の奈良の名勝案内地図を取り出す。観光名所が絵入りで案内されているのだが、興福寺のシンボルの五重塔は驚くほど小さくて、代わりに南円堂が大きく描かれている。
南円堂は西国三十三所の第九番札所で、庶民の信仰を集めた。「地図はみんなの興味がどこにあったか、よくわかる。中世から明治・大正の人々は、五重塔にはほとんど興味を示してません。圧倒的に手を合わせていたのが南円堂」
その南円堂に上がる石段にだけ、赤いのぼりが並んでいる。梅林さんが「すごい好きな景色」という。
だがしかし、地図をよく見ると、この石段は描かれていない。「明治~大正にでき、江戸時代には存在しなかった。では、どこを通って参拝してたか?」。梅林さんが江戸時代の「大和名所図会」を取り出す。南円堂前に石段があり、穴門というけったいな名前の門があったという。
穴門の跡。塀を切っている=奈良市登大路町で2022年3月4日午後2時17分、松井宏員撮影
「今も跡があるんです。行ってみましょう」と梅林さんは三条通りを西へ歩く。興福寺を囲っている築地塀が切れて石段が付いている所がある。「ここに穴門があったんです」。なるほど、塀に穴を開けたような。参道にするため、わざわざ塀を切ったようだ。「江戸時代の人たちがこの石段を下りてくると」と梅林さんが反対側を向く。細い路地が南へ延び、その先に町家が見える。
あの先には何が? 「明治にできた元林院という花街があったんです」。さっき通った絵屋橋の先、率川の流れる谷底に花街があったのだ。「谷底は悪い土地。そこに悪所の花街ができた。祈りと遊びは表裏一体。南円堂に手を合わせた人々は、谷底に吸い込まれていったんです」
まだ、花街の名残があるという。我々も谷底に吸い込まれるとしよう。【松井宏員】=<4>は20日掲載
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