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2022年4月16日 (土)

平城京の東六坊大路あたり 毎日新聞より

「散歩日和」毎日新聞連載1

P1150379

「散歩日和」毎日新聞連載2

P1150378

(画像はクリックすると拡大します)

東向通りから橋本町そして餅飯殿通りあたりは平城京の外京、東六坊大路です。

三条大路とクロスするあたりです。

毎日新聞にそのあたりのことを2回にわたり大きく取り上げられています。

 

1984年、橋本町の南都まほろば会と橋本町自治会で復元した橋本町御高札場、そして2010年に復元した奈良縣里程元標のこともくわしく紹介されています。歴史を探ることも復元の費用もたいへんでしたが、よくぞ、歴史を掘り起こし、それぞれを復元したことだと思います。

日頃も多くの奈良県民や旅行に来られた皆様に注目されて見て頂いています。観光ガイドの方もよくここで案内されています。そのうえ、こういう大手新聞の記事でも大きく取り上げられる歴史遺産であり、皆の力で復元して良かったと思います。

NHKのブラタモリの番組で親愛幼稚園(奈良基督教会)あたりが大きな断層であると紹介されました。京都高低差学会の方が紹介されています。

あまりに大きな記事で、A4スキャナーから溢れてしまいますので、カメラで撮影しましたが、うまく見ることが出来るでしょうか。

ともあれ、非常に歴史があることがわかります。

(以下毎日新聞デジタル有料版を購読してましたので、テキストを転載させていただきます。新聞記事2回分になります。)

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連載1

<<奈良凸凹(でこぼこ)編>

 

 今回から「奈良凸凹編」として、京都高低差崖会崖長の梅林秀行さんと奈良を歩きます。梅林さんは京都のみならず、奈良の高低差にも通じてる。奈良に凸凹のイメージはあんまりないけど……。

 

断層の造る坂道。この坂の中腹に西不明門があり、その前を東六坊大路が通っていた=奈良市東向中町で2022年3月4日午後1時14分、松井宏員撮影
 待ち合わせた近鉄奈良駅前の行基像から西へ歩く途中、梅林さんが振り返る。道路が上り坂になっている。早速、段差があった。「奈良盆地東縁断層帯が横切ってて、そのうちの一つ。この段差が興福寺の境内と一致してるんです」

 駅から一つ目の南北の小西通りに入る。たくさんの人がそぞろ歩く「小西さくら通り商店街」は、「とてもいい商店街です」と梅林さんのお気に入り。郷土本が充実している啓林堂書店、大仏あんぱんが名物のシャトードール等々、後で寄ろうっと。

 質屋の角を東へ折れる。「まっすぐ行くと、今はない興福寺の西不明(あかずの)門です」。梅林さんの先導で進むと、正面に急坂が見えてきた。えらく上の方から人が下りてくる。まるで崖だ。「さっきの断層ですね。奈良は意外と凸凹があるんですよ」と、梅林さんは東向(ひがしむき)商店街を突っ切って、坂を上がっていく。

興福寺周辺
 西不明門は坂の中腹にあったが、明治時代の廃仏毀釈(きしゃく)で壊された。地形図に平城京の街路を合わせた梅林さん特製の地図を見ると、西不明門の前には東六坊大路が通っている。

 「今は跡形もありませんが、東六坊大路は幅24メートルもあった。ただ、こんな傾斜地を通ってたんで、使い勝手は悪いですよね。役人が机の上で線を引いたのがよくわかる」。昔もお役所仕事はあったようで。

 「代わって、生活道路として後世に通されたのが東向商店街の通りです」。普通、道路は断層崖の下にできる。なんといっても通しやすいし。東六坊大路からは東向商店街まで約40メートル。こんなにずれてたら、もはや別の道ですよね。

 「そう、そこが大事で、今の奈良は平城京の直系ではないんです。いったん断絶してる。平安京に都が移り、天皇も貴族も引っ越して、平城京は大部分が放棄され田んぼや畑に戻った。政治的に設定された町なんで、政治がなくなると町もなくなるんです」。つまりは用済みというわけか。

興福寺周辺 外京
 平城京ができたのは710年。今いる所は、四角形の平城京から東へ張り出した外京にあたる。桓武天皇が784年に長岡京へ、794年に平安京へ遷都し、平城京は打ち捨てられる。長らく都として栄えた京都との違いがそこにある。しかし、寺社は残った。

 「平安遷都から約300年後、興福寺とか東大寺とか有力寺院の門前に集落が発生する。門前郷といいますが、これが奈良の直接の先祖。中世の宗教都市で、これが南都です」

 この断層のように、古代と中世の奈良には大きなズレがあるのだ。それが道の約40メートルのズレから読み解ける。

 東向商店街へ下りる。「変わった名前の由来ですが……」。それ、知ってます。休日はこの商店街で昼間から一杯やってる奈良の知人から聞きました。興福寺に敬意を表して、お尻を向けないように、店は通りの東側には造らず、西側にしかなかったから、ですね。

 すると梅林さんが、したりとばかりに笑みを浮かべる。なんかワナにかかったかも。

 「発掘調査から、この通りは戦国時代後期にできていて、それまで道はなかった。断層崖の裾なんで、伏流水が湧く低湿地。生活に向いてなかったんで、当初は東側には住宅がなかった」。つまりは断層崖に阻まれて、物理的に東側には家が建てられなかったと?

 「西側が先行して開発され、半世紀後には東側も宅地になるんですが、西側にしか家が建っていなかった約50年間の記憶が町名になっている。強烈に記憶に残ってたんでしょうね」。興福寺をはばかったわけではなかったんだ。【松井宏員】=<2>は15日掲載

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連載2

 <奈良凸凹(でこぼこ)編>

 

 平城京と現在の奈良の断層をたどって、東向商店街を歩く。

 

 「我々は、奈良が再生した一歩目を歩いてるんです」と言いながら、梅林秀行さんが立ち止まったのは、興福寺の西不明(あかずの)門跡に通じる急坂のすぐ南。閉まった門扉の向こうに階段があって、その上に和風の教会が見える。さっきの坂より、ずいぶん奥まっている。

 

 「両側のビルが奥行きがありますよね。断層崖を削ったのがわかります」。中世の都市化の名残だ。「都市化されたのは西大寺や興福寺周辺。その間の平城宮跡は今も田んぼです」。はて、そうすると奈良の中心て、どこなんでしょう?

 

 


 梅林さんはニッコリ笑って「それがこの先の橋本町の交差点なんです」と歩き出す。一方通行の道路と交差する三差路の角には、1926年築の堂々たる南都銀行本店ビルが建ち、商店が並ぶ。が、ここがセンター? 役所とかメインストリートとか、センターらしいものがないですけど……。

 

 「そう思うのが正しいです」とうなずいた梅林さんが言うには「センターの印は金融機関と呉服屋さん、繊維街ですね。大阪なら本町通、京都なら室町通がそう。近代は繊維街は廃れていきますが、銀行は残る」。金融機関は江戸時代なら両替商。大阪の高麗橋通も両替商や呉服商が軒を連ねていた。

 

 なぜ、ここがセンターに?

 

 「一つは興福寺の門前であること。それと大阪に抜ける街道沿いであること」。南都銀行本店が面する東西の通りは、平城京の三条大路。現在は三条通りという。ずっと三条が付いてるんですね?

 

復元された高札場と里程元標。橋本町が奈良のセンターだったことを示している =奈良市橋本町で2022年3月4日午後1時46分、松井宏員撮影拡大
復元された高札場と里程元標。橋本町が奈良のセンターだったことを示している =奈良市橋本町で2022年3月4日午後1時46分、松井宏員撮影
 「いえ、そうじゃない。三条通りという名前は、さかのぼっても大正時代から。それまでは暗越奈良街道。近代になって三条通りと名を変え、中世をすっ飛ばして、古代にひも付けされたんです」

 

 そうして、奈良は平城京以来の都ですよ、という顔をしているというわけか。しかし、そもそもここは外京。都の外れだし。

 

 この交差点がセンターということは、銀行ができる前にもそれらしい何かがあったと? 「そうです、そうです」と梅林さんが三条通りを東へ歩く。高札場があった。時代劇で、賊の人相書きが張り出されて、人だかりがしているアレだ。お上のお触れなんかが掲示され、下々に知らしめるもので、奈良時代からあるという。人通りが多い辻(つじ)などに設けられた。この橋本町がいかににぎわっていたかの証しだ。高札場は明治初期まであり、ここに復元されているのだ。

 

 その前には「奈良縣里程元標」と書かれた木札が立っている。里程元標とは街道の起点を示すもので、明治政府が定めた。ここは京都、大阪、伊勢に通じる街道の起点だった。「位置は変わってます。元あったのは」と梅林さんが来た道を引き返す。商店街入り口のファミリーマート前の歩道に、旧設置場所のモニュメントがあった。

 この商店街の名前が変わっている。「もちいどのセンター街」。もちいどのは餅飯殿と書く。その名の通り、角に高速餅つきで有名な餅屋さんがある。昔、東大寺のえらいお坊さんが大峰山の大蛇を退治した時、この町の人たちがお供をし、餅をつき飯を炊いて、大蛇の被害を受けた人々に配ったことに由来するそうだが、それはさておき。

 「ここが東六坊大路。位置は動いてません」と梅林さんが説明を始める。前回歩いた東向商店街は、東六坊大路からずれて付けられた道だったが、もちいどのセンター街は元の東六坊大路なのだ。東向商店街から約20メートル東になる。

 

 改めて地形を見てみよう。興福寺は断層で隆起した台地の上にある。舌を出したように西へ張り出しているので、舌状台地という。今いるのは、その台地の下だ。台地の斜面を通した東六坊大路だが、ここからは台地に邪魔されることがないので、付け替える必要がなかったわけだ。

 

 「センター街の中に、猿沢池の元があるんですよ」。猿沢池の元? 梅林さんは私のけげんな顔を見て、ニンマリするのだった。【松井宏員】=<3>は5月6日掲載

 ■人物略歴

梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)さん
 京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大非常勤講師。著書に「京都の凸凹を歩く1・2」(青幻舎)。

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