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NPO法人 「奈良まほろばソムリエの会」は県指定文化財の保存状態を県内にわたり調査してきました。
26日に理事長と直接担当した保存継承グループにわたしも同行して、県に調査報告の提案書の提出に行きました。
調査報告はありがたく、早速、活用したいと県ではたいへん評価されました
27日付の毎日新聞に早速掲載されています
県指定文化財の保存状態を調査 奈良ソムリエの会
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」(豊田敏雄理事長)は26日、県指定文化財の保存状態などを調査した結果を公表した。調査は2020年6月~21年10月、史跡54件▽名勝3件▽天然記念物55件▽有形民俗文化財18件の計130件で実施。会員が目視や関係者へ聞き取りをし、管理状況や説明板の有無などについて調べた。
石室内で崩落が起きていると見られる笛吹神社古墳(葛城市)=奈良まほろばソムリエの会提供。
葛城市の笛吹神社古墳(史跡)と平群町の宮山塚古墳(同)では、石室内で崩落が起きている可能性が判明。宇陀市の初生(はじょう)寺境内に自生するツルマンリョウ(天然記念物)が10年ほど前から見られなくなっているなど、貴重な植物の存続が危ぶまれる例が3件あった。説明板は10件で設置の確認ができなかった。2件で記載の誤り、3件が読みづらい状態になっていたという。
会のメンバーで調査を担当した久門たつおさんは「文化財を個人が所有している場合、予算の関係などで管理に手が回っていないケースがある」と指摘。結果や課題をまとめた提言書を県に提出し、行政による実態調査や支援を要望した。【塩路佳子】
奈良新聞27日付にも大きく紹介されています。
130件の説明板設置、表記や管理状況など 結果まとめ県に提言書
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」(豊田敏雄理事長)は26日、県指定文化財に関する調査結果を公表し、提言書を県文化・教育・くらし創造部と文化財保存課に提出した。
調査の実施期間は2020年6月~21年10月で、対象は史蹟、名勝、天然記念物、有形民俗文化財の4分野144件。実際に調査ができたのは、史蹟54件、名勝3件、天然記念物55件、有形民俗文化財18件で計130件だった。
現地の説明板設置の有無▷表記や管理の状況▷現地への案内板の設置が適正か―などをチームに分かれて現地を訪問し、目視、関係者からの聞き取り調査をし、写真撮影を行った。活動は全体で36日間、参加者はのべ155人だった。
130件の調査票それぞれで「当面の課題」と「今後の課題」を記載。緊急性が高い課題として、天然記念物の存続が危ぶまれるため現状調査が必要な場所が3件、古墳の石室内で崩落が起きているため調査が必要な場所が2件、説明板に関して間違いや改善が必要な箇所が20件挙げられた。
調査結果を受け、同会は県に対し適切な文化財保存のため、早期に調査や対策に取り組むことを求める提言書を提出した。
豊田理事長は「実際に見てはじめて気が付く部分も多い。文化財保存の意識を高め、前に進んでいけたら」と話した。
27日奈良テレビのゆうドキッ!!のニュースにも紹介されました。
県の文化・教育・くらし創造部長の舟木 豊さんに提出と説明している様子。
南都銀行本店の奈良市提供のウィンドーにも飾られていました。
ホームページをご覧下さい⇒https://tenpyosai.jp/
奈良市観光協会の案内です。
奈良時代を体感する毎年恒例のイベント「平城京天平祭」が、平城宮跡朱雀門ひろばで開催📢 5/3(火・祝)には、平城京の時代の装束をまとった歴代天皇と貴族、文武百官、雅楽などが朱雀門まで練り歩く「平城京天平行列―平城遷都之詔―」が行われます。会期中は、平城宮を警護していた「衛士隊」の隊列が再現されるほか、天平人の大道芸など多種多様なパフォーマンスも。「東市西市」という往時の「市」をイメージしたお店には大和の美味しいものが並び、地元の新鮮野菜の市も開かれます。春の平城宮跡で華やかな古代行事を体感できる楽しい3日間です✨
日時:2022/5/3(火・祝)~5/5(木・祝)10:00~16:30
※雨天時一部中止
料金:入場無料(一部有料イベントあり)
19日に続いて24日、東大寺知足院のナラノヤエザクラを拝見させていただきました。小雨の中、5日ぶりの知足院のナラノヤエザクラは満開になっていました。ナラノヤエザクラの下には花びらは落ちていませんでしたので、まさに満開ということでした。
撮影中の映像作家の保山耕一さんと清水真貴さん。この日、雨の中2時間半ほど熱心に撮影されていました。
そして23日にひらかれた奈良八重桜の会の20周年記念式典のことが奈良新聞25日に大きく報じられています。
(以下有料 奈良新聞電子版より)
短歌大賞の賞状などを受け取る松森さん(手前右)=23日、奈良市登大路町の奈良公園バスターミナルレクチャーホール
県花・ナラノヤエザクラの普及、保護育成に尽力する奈良八重桜の会(上田トクヱ会長、74人)の設立20周年記念式典が23日、奈良市登大路町の奈良公園バスターミナルレクチャーホールで開かれた。関係者や来賓ら約150人が出席し、節目を祝い、「いにしえの奈良八重桜を永久(とこしえ)に―もう幻の桜にはしない」を合言葉に一層の活動充実を誓った。
同会は2001年に発足。昨年20周年を祝う予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大で断念し、ようやく開催にこぎつけた。
式典では上田会長があいさつし、各種団体との協力によるナラノヤエザクラの植樹やイベントを通してのファン拡大、天皇皇后両陛下(当時)への献上、室町時代の能「八重桜」の復曲など20年間の活動の一端を紹介。「これからもナラノヤエザクラの語り部として花守を続けていきたい」と話した。
続いて、来賓の荒井正吾知事や奈良国立博物館の井上洋一館長、同会の大川靖則顧問が祝辞を述べた。
このあと20周年記念の短歌大賞の表彰式を実施。全国635首の応募の中から選ばれた入賞者8人のうち、出席した大賞の松森重博さん(73)=奈良市=ら3人に賞状などが手渡された。
また興福寺の多川俊映寺務老院が同寺とナラノヤエザクラの関わり、能の復曲などについて語った記念講演、映像作家の保山耕一さんの作品「大和し 美し」の上映なども行われた。
(追記)
東大寺知足院のナラノヤエザクラの短歌が、5月26日の毎日新聞奈良版やまと歌壇に一席で載りました。
雨にも負けず東大寺知足院の裏山にナラノヤエザクラ満開に咲く
横山季由先生の評、
松森詠は、天然記念物のナラノヤエザクラがある知足院を訪ねての作。「雨にも負けず」「満開に咲く」が良い。
多川俊映・寺務老院の講演の様子。
奈良八重桜の短歌大賞の副賞としてわたしの短歌を多川俊映・寺務老院の達筆な筆で短冊に書いて頂きました。披露させていただきます。
「時を超え古人とつなぐかに奈良八重桜は堂跡に咲く 松森重博これを詠む 興福(寺 多川)俊映書く 印」
ときをこえ いにしえびとと つなぐかに ナラノヤエザクラは どうあとにさく
いただいた古地図。(クリックすると拡大します。貴重な資料です)
古地図を見ながらのお話でした。
「興福寺には2つの桜がある。
ナラノヤエザクラと楊貴妃桜である。楊貴妃桜は五十二段の上、川路聖謨の碑の近くである。
かつてげんそう上人(聞き間違えかもしれません)が楊貴妃桜を好んだことから。
そして一条院中宮彰子がナラノヤエザクラをめでて京都の宮中へ運ばせようとしたが、興福寺の大衆、衆徒(僧兵ともいわれる実力集団)が転害門あたりで運ばせなかった・・・・」といったお話でした。
30分間でしたがもっとくわしく聞きたいお話でした。次の機会を楽しみにしたいと思います。
うれしいご報告です。
昨年春から昨年末まで、奈良八重桜の会(上田トクヱ会長)が20周年を記念して短歌を募集されていました。
昨年春のナラノヤエザクラを見て投稿していたわたしの作の短歌が、なんと短歌大賞に選ばれたとのことです。
大 賞(1名) 松森 重博
優秀賞(2名) 今北 渚、 玉井 秀男
特別賞(5名) 汲田 千穂子、 白藤 巳玲、伊藤 一男、 長澤 治枝、 今野 恵教(敬称略)
びっくりしました。全国から635首もの応募があったとのことです。
大賞に選ばれた作は、
いにしえびと
時を超え古え人とつなぐかにナラノヤエザクラは堂あとに咲く 松森重博
当日上映された映像作家の保山耕一氏の映像にも紹介されました。
クリックすると拡大します。ありがとうございました。
上田トクヱ会長のご挨拶がありました。
興福寺前貫首の多川俊映・寺務老院の記念講演もありました。
また映像作家の保山耕一さんの25分間の桜のすばらしい上映もありました。
荒井正吾奈良県知事や井上奈良国立博物館長や大川もと奈良市長の祝辞も述べられました。
存じ上げている皆様の多数ご出席のもと表彰される会で実に有り難いことでした。
皆様、ほんとうにありがとうございました。
左端おふたり選者の先生。上田会長。右は入選の人たちと。かぎろひの豊永さん、彫刻家の坂口紀代美さん、お写真ありがとうございました。
昨年来、長い間春日大社の萬葉植物園は休園でしたので久しぶりに萬葉植物園を散策できました。
片岡梅林にあった円窓も移転されるということでしたが、正面入口近くに整備されていました。障子も入っています。さぞかし良い空間だと思います。
後日、花山院・宮司さんにうかがいました。
円窓はかつては経蔵であったとのことです。明治期の神仏分離で窓が開けられたらしく、もとは現在地のあたりにあったらしいとのことです。今回、元の場所あたりに戻ったということになるということです。
すぐそばに會津八一の歌碑があります。服部素空氏の解説です。
かすがの に おしてる つき の ほがらかに
あき の ゆふべ と なり に ける かも
(春日野におし照る月のほがらかに秋の夕べとなりにけるかも)
春日野 「現在の奈良公園。“若草山の麓より西の方一帯の平地をいふ。古来国文学の上にて思出深き名にて、今も風趣豊かなる実景なり。”自註鹿鳴集」
おしてる 「おしは接頭語、くまなく照っている」
ほがらか 「あかるく澄んだ月」
歌意
春日野にくまなく照っている月の光はあかるく澄み渡っている。まさに秋の夜になったのだ。
良い風景になりました。
御衣黄も咲いていました。
臥竜のイチイガシです。
鯉に餌をあげました。
この日は昼から雨になりました。映像作家の保山耕一氏が春日大社で撮影され、YouTubeに発表されていますので紹介します。
YouTube「奈良時の雫」をぜひご覧ください
www.youtube.com/watch?v=6osjPfTzy7M
「春日大社、林檎の花」
満開前の藤。
静かに降り続く冷たい雨。
私には藤が雨にじっと堪えているように見えた。
開きかけた花びらを傘のように閉じて、雨に降られていた。
声無き命の仕草、藤の声が聞こえるような気がした。
今日の撮影の主目的は藤ではない。
林檎の庭の林檎の花。
元気が無さそうに見えていた林檎の木。
この春はみずみずしい葉をたくさん広げている。
春日大社で最も穢れなき花はこの林檎の花だと私は思っている。
人々の祈りを見続けてきた林檎の木に咲く白い花。
その林檎の花が一輪だけ雨に濡れて咲いていた。
この林檎の花を撮影出来たのは今日が始めて。
枯れてしまわないかと心配だった林檎の木。
さだまさしさんや川上ミネさん、桃蹊さんの奉納を一番近くで見て聴いていた林檎の木。この花こそ、私にとって神様に一番近い花。
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来週にかけて春日大社の萬葉植物園の藤も見頃という情報を聞きました。雨の予報ながら曇り空ということで4月21日朝から訪ねました。東門入口より。
早速、藤の薫りに包まれます。
藤に池の鯉が泳いでいます。
(2022年4月21日撮影)
(追記)
この日は、昼から雨が降り出しました。映像作家の保山耕一氏は春日大社で素晴らしい映像を撮って、発表されていますので紹介します。
「春日大社、林檎の花」
満開前の藤。
静かに降り続く冷たい雨。
私には藤が雨にじっと堪えているように見えた。
開きかけた花びらを傘のように閉じて、雨に降られていた。
声無き命の仕草、藤の声が聞こえるような気がした。
今日の撮影の主目的は藤ではない。
林檎の庭の林檎の花。
元気が無さそうに見えていた林檎の木。
この春はみずみずしい葉をたくさん広げている。
春日大社で最も穢れなき花はこの林檎の花だと私は思っている。
人々の祈りを見続けてきた林檎の木に咲く白い花。
その林檎の花が一輪だけ雨に濡れて咲いていた。
この林檎の花を撮影出来たのは今日が始めて。
枯れてしまわないかと心配だった林檎の木。
さだまさしさんや川上ミネさん、桃蹊さんの奉納を一番近くで見て聴いていた林檎の木。この花こそ、私にとって神様に一番近い花。
YouTube「奈良時の雫」をぜひご覧ください⇒www.youtube.com/watch?v=6osjPfTzy7M
フェースブック知り合いのIさんのアドバイスを受けて、東大寺知足院のナラノヤエザクラを初めて拝見しました。どちらの方向からもフェンス越しです。今年はまだ咲くのが遅いそうです。
天然記念物の石碑が建っています。大正13年3月と読めます。(画像をクリックすると拡大します)
奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブックには以下のように載っています。
知足院ナラノヤエザクラ。「東大寺の塔頭、知足院の裏山崖上の八重桜がナラノヤエザクラと命名され、天然記念物に指定された。当時、東京帝国大学教授であった三好学博士が、伊勢大輔が詠んだ古歌 「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな」の八重桜を探し求め、やっと発見された。ナラノヤエザクラは、ほかの八重桜より開花が遅く、四月下旬から五月上旬になる。蕾は濃紅色を帯び、開花すると淡紅色で、むしろ白味が強いが、終わり近くなると花弁に紅色を増してくる。花弁の数は二十~三十五枚で、少ないものは十二枚、多いものは百枚もある(奈良市雑司町)」
紹介頂いたIさん、ありがとうございました。(2022年4月19日撮影)
東日本大震災から11年が経ちました。独立行政法人 中小企業基盤整備機構のころ以来、陸前高田市の復興に長らく携わっておられる、現在神戸の流通科学大学商学部准教授の長坂泰之さんから紹介いただいた、『復興・陸前高田 ゼロからのまちづくり』という本です。
長坂泰之さんも多くのページに書かれ、本の編集者の主要メンバーです。
300ページにわたって、前代未聞の復興事業がくわしく書かれています。
またゼロからのまちづくりと掲げられているとおり、コンパクトシティ、中心市街地、まちづくり、まちなか広場、図書館、公園の子ども向けの遊具、高齢者や中高生むけのしかけ、などまちづくりの大きなヒントが込められているように思います。参考にしたいと思います。
鹿島出版会発行。2800円+税。
主要な目次です。上の写真は「うごく七夕まつり」とのことです。
商店街の人々が、津波が来る前から避難を呼びかけ、震災直後から、救援に始まり商店街が必要なのだと仮設商店街づくりに始まり、祭りの復活など町の人々への献身的な活動が描かれています。当初自分の商売の復活よりも町の復活を心がけて、通信も交通もいろいろ不便な中、活動されています。国や県や市、いろいろな組織、人々のつながりや動きが多方面から書かれています。
以前、2015年、一度だけ三陸を訪ねたときの当方のブログです。あのときちょうど中心市街地のかさ上げ工事をされている真っ最中でした。どうなるのだろうと思いましたが、いまかなり復興されたようです。皆さんのご努力にエールを送りたいと思います。
http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-041c.html
とてもそんな生やさしいものではなかったことをこの本を読んで思うことです。長坂泰之さん、今後ともよろしくお願いします。
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長坂泰之さんからコメントいただきました。
「松森理事長。ありがとうございます。官民連携、公民連携はあるべき論としては間違っていませんが小さなまちでは容易くありません。それを皆さんが成し遂げたことが素晴らしいと思っています、」
滝坂の道の案内動画ということです。紹介します。ほぼ上りの道です。
ただ、奈良から歩くと円成寺からの帰りのバスの時間、本数少ないですのでよく調べて出かけて下さい。
反対に、奈良から柳生方面のバスに乗り、円成寺で降りて、円成寺を拝観。円成寺から奈良高畑のほぼ下りの道のコースがおすすめです。
以前に歩いた当方のブログです。
http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-c9e1.html
http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-89b3.html
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【奈良市観光協会×柳生観光協会コラボ企画柳生街道動画完成!!】
https://www.youtube.com/watch?v=WaR9HY9Zgh4&t=4s
この度、奈良市観光協会と柳生観光協会の共同企画で、柳生街道(滝坂の道、剣豪の道)の動画制作を行いました。
奈良市内から滝坂の道を経て圓成寺まで行く柳生街道を紹介しています。
撮影スタッフが実際に歩き、街道沿いにある各スポットを紹介しています。
柳生観光PRサポーターのコスプレイヤー「桜花さん」がナレーションを担当。
7割以上が60歳以上の方が歩くため、聞き取りやすいトーンでナレーションを行っています。
日本語のナレーションはコスプレイヤーの「桜花さん」
英語のナレーションは「Kikkaさん」
中国語のナレーションはコスプレイヤーの「Hakken 八犬さん」
が担当しています。英語・中国語は近日アップ予定です!
是非歩きに来てください!
https://www.youtube.com/watch?v=WaR9HY9Zgh4&t=4s
ロケハン:
Atsushi Kuroda
佐伯 和義
編集:
OKUDA Co.,Ltd. Nara Branch
佐伯 和義
4月17日、良い天気の猿沢池あたりを散策。絵を描いている星伸二さんはいるだろうかと探して。
きょうは1時から猿沢池の放生会で、興福寺の辻さんや南さん、そして近畿大学の皆さまがちょうど準備中でした。
南円堂前の藤棚のフジがきれいに咲いています。
西金堂あとあたりでは、八重桜が咲き誇っています。遠くに五重塔を望んで。
探している星伸二さんは見つかりませんでした。この日は東大寺大仏殿中門あたりで絵を描かれたり、その後、橿原市の方に移動されたことがあとでわかりました。ご健勝を祈念します。
天平ホテルの1Fギャラリー天平ならまちでは、奈良まほろばソムリエの会の藤井哲子さんの展覧会がちょうど本日から23日まで開催されると聞いていましたので早速拝見しました。くわしくご本人から説明を聞くことが出来ました。
「散歩日和」毎日新聞連載1
「散歩日和」毎日新聞連載2
(画像はクリックすると拡大します)
東向通りから橋本町そして餅飯殿通りあたりは平城京の外京、東六坊大路です。
三条大路とクロスするあたりです。
毎日新聞にそのあたりのことを2回にわたり大きく取り上げられています。
1984年、橋本町の南都まほろば会と橋本町自治会で復元した橋本町御高札場、そして2010年に復元した奈良縣里程元標のこともくわしく紹介されています。歴史を探ることも復元の費用もたいへんでしたが、よくぞ、歴史を掘り起こし、それぞれを復元したことだと思います。
日頃も多くの奈良県民や旅行に来られた皆様に注目されて見て頂いています。観光ガイドの方もよくここで案内されています。そのうえ、こういう大手新聞の記事でも大きく取り上げられる歴史遺産であり、皆の力で復元して良かったと思います。
NHKのブラタモリの番組で親愛幼稚園(奈良基督教会)あたりが大きな断層であると紹介されました。京都高低差学会の方が紹介されています。
あまりに大きな記事で、A4スキャナーから溢れてしまいますので、カメラで撮影しましたが、うまく見ることが出来るでしょうか。
ともあれ、非常に歴史があることがわかります。
(以下毎日新聞デジタル有料版を購読してましたので、テキストを転載させていただきます。新聞記事2回分になります。)
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連載1
<<奈良凸凹(でこぼこ)編>
今回から「奈良凸凹編」として、京都高低差崖会崖長の梅林秀行さんと奈良を歩きます。梅林さんは京都のみならず、奈良の高低差にも通じてる。奈良に凸凹のイメージはあんまりないけど……。
断層の造る坂道。この坂の中腹に西不明門があり、その前を東六坊大路が通っていた=奈良市東向中町で2022年3月4日午後1時14分、松井宏員撮影
待ち合わせた近鉄奈良駅前の行基像から西へ歩く途中、梅林さんが振り返る。道路が上り坂になっている。早速、段差があった。「奈良盆地東縁断層帯が横切ってて、そのうちの一つ。この段差が興福寺の境内と一致してるんです」
駅から一つ目の南北の小西通りに入る。たくさんの人がそぞろ歩く「小西さくら通り商店街」は、「とてもいい商店街です」と梅林さんのお気に入り。郷土本が充実している啓林堂書店、大仏あんぱんが名物のシャトードール等々、後で寄ろうっと。
質屋の角を東へ折れる。「まっすぐ行くと、今はない興福寺の西不明(あかずの)門です」。梅林さんの先導で進むと、正面に急坂が見えてきた。えらく上の方から人が下りてくる。まるで崖だ。「さっきの断層ですね。奈良は意外と凸凹があるんですよ」と、梅林さんは東向(ひがしむき)商店街を突っ切って、坂を上がっていく。
興福寺周辺
西不明門は坂の中腹にあったが、明治時代の廃仏毀釈(きしゃく)で壊された。地形図に平城京の街路を合わせた梅林さん特製の地図を見ると、西不明門の前には東六坊大路が通っている。
「今は跡形もありませんが、東六坊大路は幅24メートルもあった。ただ、こんな傾斜地を通ってたんで、使い勝手は悪いですよね。役人が机の上で線を引いたのがよくわかる」。昔もお役所仕事はあったようで。
「代わって、生活道路として後世に通されたのが東向商店街の通りです」。普通、道路は断層崖の下にできる。なんといっても通しやすいし。東六坊大路からは東向商店街まで約40メートル。こんなにずれてたら、もはや別の道ですよね。
「そう、そこが大事で、今の奈良は平城京の直系ではないんです。いったん断絶してる。平安京に都が移り、天皇も貴族も引っ越して、平城京は大部分が放棄され田んぼや畑に戻った。政治的に設定された町なんで、政治がなくなると町もなくなるんです」。つまりは用済みというわけか。
興福寺周辺 外京
平城京ができたのは710年。今いる所は、四角形の平城京から東へ張り出した外京にあたる。桓武天皇が784年に長岡京へ、794年に平安京へ遷都し、平城京は打ち捨てられる。長らく都として栄えた京都との違いがそこにある。しかし、寺社は残った。
「平安遷都から約300年後、興福寺とか東大寺とか有力寺院の門前に集落が発生する。門前郷といいますが、これが奈良の直接の先祖。中世の宗教都市で、これが南都です」
この断層のように、古代と中世の奈良には大きなズレがあるのだ。それが道の約40メートルのズレから読み解ける。
東向商店街へ下りる。「変わった名前の由来ですが……」。それ、知ってます。休日はこの商店街で昼間から一杯やってる奈良の知人から聞きました。興福寺に敬意を表して、お尻を向けないように、店は通りの東側には造らず、西側にしかなかったから、ですね。
すると梅林さんが、したりとばかりに笑みを浮かべる。なんかワナにかかったかも。
「発掘調査から、この通りは戦国時代後期にできていて、それまで道はなかった。断層崖の裾なんで、伏流水が湧く低湿地。生活に向いてなかったんで、当初は東側には住宅がなかった」。つまりは断層崖に阻まれて、物理的に東側には家が建てられなかったと?
「西側が先行して開発され、半世紀後には東側も宅地になるんですが、西側にしか家が建っていなかった約50年間の記憶が町名になっている。強烈に記憶に残ってたんでしょうね」。興福寺をはばかったわけではなかったんだ。【松井宏員】=<2>は15日掲載
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連載2
<奈良凸凹(でこぼこ)編>
平城京と現在の奈良の断層をたどって、東向商店街を歩く。
「我々は、奈良が再生した一歩目を歩いてるんです」と言いながら、梅林秀行さんが立ち止まったのは、興福寺の西不明(あかずの)門跡に通じる急坂のすぐ南。閉まった門扉の向こうに階段があって、その上に和風の教会が見える。さっきの坂より、ずいぶん奥まっている。
「両側のビルが奥行きがありますよね。断層崖を削ったのがわかります」。中世の都市化の名残だ。「都市化されたのは西大寺や興福寺周辺。その間の平城宮跡は今も田んぼです」。はて、そうすると奈良の中心て、どこなんでしょう?
梅林さんはニッコリ笑って「それがこの先の橋本町の交差点なんです」と歩き出す。一方通行の道路と交差する三差路の角には、1926年築の堂々たる南都銀行本店ビルが建ち、商店が並ぶ。が、ここがセンター? 役所とかメインストリートとか、センターらしいものがないですけど……。
「そう思うのが正しいです」とうなずいた梅林さんが言うには「センターの印は金融機関と呉服屋さん、繊維街ですね。大阪なら本町通、京都なら室町通がそう。近代は繊維街は廃れていきますが、銀行は残る」。金融機関は江戸時代なら両替商。大阪の高麗橋通も両替商や呉服商が軒を連ねていた。
なぜ、ここがセンターに?
「一つは興福寺の門前であること。それと大阪に抜ける街道沿いであること」。南都銀行本店が面する東西の通りは、平城京の三条大路。現在は三条通りという。ずっと三条が付いてるんですね?
復元された高札場と里程元標。橋本町が奈良のセンターだったことを示している =奈良市橋本町で2022年3月4日午後1時46分、松井宏員撮影拡大
復元された高札場と里程元標。橋本町が奈良のセンターだったことを示している =奈良市橋本町で2022年3月4日午後1時46分、松井宏員撮影
「いえ、そうじゃない。三条通りという名前は、さかのぼっても大正時代から。それまでは暗越奈良街道。近代になって三条通りと名を変え、中世をすっ飛ばして、古代にひも付けされたんです」
そうして、奈良は平城京以来の都ですよ、という顔をしているというわけか。しかし、そもそもここは外京。都の外れだし。
この交差点がセンターということは、銀行ができる前にもそれらしい何かがあったと? 「そうです、そうです」と梅林さんが三条通りを東へ歩く。高札場があった。時代劇で、賊の人相書きが張り出されて、人だかりがしているアレだ。お上のお触れなんかが掲示され、下々に知らしめるもので、奈良時代からあるという。人通りが多い辻(つじ)などに設けられた。この橋本町がいかににぎわっていたかの証しだ。高札場は明治初期まであり、ここに復元されているのだ。
その前には「奈良縣里程元標」と書かれた木札が立っている。里程元標とは街道の起点を示すもので、明治政府が定めた。ここは京都、大阪、伊勢に通じる街道の起点だった。「位置は変わってます。元あったのは」と梅林さんが来た道を引き返す。商店街入り口のファミリーマート前の歩道に、旧設置場所のモニュメントがあった。
この商店街の名前が変わっている。「もちいどのセンター街」。もちいどのは餅飯殿と書く。その名の通り、角に高速餅つきで有名な餅屋さんがある。昔、東大寺のえらいお坊さんが大峰山の大蛇を退治した時、この町の人たちがお供をし、餅をつき飯を炊いて、大蛇の被害を受けた人々に配ったことに由来するそうだが、それはさておき。
「ここが東六坊大路。位置は動いてません」と梅林さんが説明を始める。前回歩いた東向商店街は、東六坊大路からずれて付けられた道だったが、もちいどのセンター街は元の東六坊大路なのだ。東向商店街から約20メートル東になる。
改めて地形を見てみよう。興福寺は断層で隆起した台地の上にある。舌を出したように西へ張り出しているので、舌状台地という。今いるのは、その台地の下だ。台地の斜面を通した東六坊大路だが、ここからは台地に邪魔されることがないので、付け替える必要がなかったわけだ。
「センター街の中に、猿沢池の元があるんですよ」。猿沢池の元? 梅林さんは私のけげんな顔を見て、ニンマリするのだった。【松井宏員】=<3>は5月6日掲載
■人物略歴
梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)さん
京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大非常勤講師。著書に「京都の凸凹を歩く1・2」(青幻舎)。
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(画像はクリックすると拡大します)
毎日新聞奈良版4月15日付に奈良八重桜の会の会長の上田トクヱさんと興福寺寺務老院の多川俊映さんの、幻の能『八重桜』の復曲上演の記事が大きく伝えられています。クラウドファインディングや寄付が目標通り集まり2026年までには上演を果たしたいとのことです。大いに期待したいと思います。
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「奈良の八重桜」描く幻の能、復曲上演へ 10年来の夢に奔走
奈良
毎日新聞 2022/4/15 10:12(最終更新 4/15 10:12) 931文字
奈良県花・ナラノヤエザクラの普及に力を注ぐ「奈良八重桜の会」(奈良市)が、長らく上演が途絶えたままになっている室町時代の能「八重桜」の復曲(復活上演)に取り組んでいる。奈良を舞台に名木の八重桜をたたえる作品で、2026年までの初演を目指している。【塩路佳子】
春日明神へ参詣した臣下が、花守の翁(おきな)から春日山の縁起を聞いた夜、明神が姿を現し、名木の八重桜をたたえて舞う――。
能「八重桜」のあらすじだ。復曲して上演につなげようという活動は、同会の上田トクヱ会長(77)の10年来の思いから動き出した。
題材となるナラノヤエザクラは4月中旬から咲く遅咲きの桜で、紅色のつぼみが開くと淡いピンクになり、散り際に再び赤くなる愛らしい花。平安時代の歌人、伊勢大輔が宮中で美しく咲くさまを「いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」と詠んだことで知られる。鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」には、興福寺から藤原道長の娘・中宮彰子に枝が献上された話が記されている。
上田さんは花姿と花をめぐる物語に引かれ、「ナラノヤエザクラを能にしたい」と常々周囲に語っていた。しかし、台本の書き手や費用の問題などから「夢物語」のまま10年が過ぎていた。
事態が進展したのは2021年夏。会の名誉会員である興福寺の多川俊映・寺務老院が、能楽研究者の西野春雄・法政大名誉教授から能「八重桜」の紹介を受けたことだった。西野名誉教授によると、能の前半と後半の間に狂言方があらすじを説明する「間狂言(あいきょうげん)」も伝わっており、江戸時代初期まで上演されていたと推測される。別名は「三笠山・東圓(とうえん)堂」。台本を読んだ多川寺務老院は「奈良らしく、完成度の高い作品」と評していた。
「現代に『八重桜』をよみがえらせたい」。上田さんの思いに火が付き、21年は会の設立20周年に当たることから復曲への機運が一気に高まった。資金はクラウドファンディングや会への寄付で調達した。節付けと舞の型付けは奈良にゆかりのある金春流能楽師に依頼し、数年かけて上演できる形になるという。上田さんは「能を通じてナラノヤエザクラを後世に伝えることができたらいい」と話し、晴れ舞台を楽しみに待つ。
4月14日から、毎日新聞奈良版では「やまとの神さま」の連載がスタートしました。奈良まほろばソムリエの会のメンバーが書きつないでいきます。トップバッターは、吉野を歩き回っておられる、池内力さんです。
映像作家の保山耕一さんによれば、上千本あたりはヤマザクラまだ咲き誇っているそうです。4月17日は奈良公園バスターミナルのレクチャーホールで、ならどっとFMの公開収録「やまとの奥の奥」とのことです。まだ残席がすこしあるようです。申し込みは、ならどっとFMへどうぞ⇒http://784press.navvita.under.jp/?eid=3515
そして横山季由先生選のやまと歌壇です。何人かの知り合いが今週も掲載されています。近頃なかなか狭き門とのことです。皆様のご健詠を味わいたいと思います。
(画像はクリックすると拡大します)
奈良まほろばソムリエの会がつくった「まほろばカルタ」に素晴らしい絵を提供頂いている、画家・なかじまゆたかさんのことが毎日新聞4月7日付で大きく報じられていますので紹介します。
この1年間、毎日新聞の奈良版では奈良まほろばソムリエの会のメンバーが、まほろばカルタの場所や社寺を交代で書いてきました。その原画はすべて、画家なかじまゆたかさんの絵であるということです。
奈良まほろばソムリエの会のホームページで見ることが出来ます。⇒http://www.stomo.jp/karuta/top.html
カルタの文と絵も見ることが出来ます⇒http://www.stomo.jp/pdf/karuta.pdf
実際のカルタは、近鉄奈良駅前の啓林堂書店、奈良もちいどのセンター街の絵図屋などでも販売されています。
「ナラノヤエザクラ」のことをくわしく奈良新聞10日付は伝えています。有料電子版より。
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育てよう奈良県の花「ナラノヤエザクラ」 接ぎ木で増殖、奈良公園で植栽進む
小倉百人一首に収録された伊勢大輔の歌でも知られるナラノヤエザクラ。その品種が1922(大正11)年に東大寺知足院で“再発見”されて今年で100年の節目を迎えた。1968(昭和43)年には県の花に選定され、一時は約2800本が奈良公園などに植栽されたものの、もともと樹勢が弱く強風で木が倒れたり、根頭がんしゅ病による生育不良、枯死もあって現在は約700本に減少。県は改めて接ぎ木による増殖を図り、同公園植栽計画に基づく育成環境の整備に取り組んでいる。
国の天然記念物に
知足院のサクラは1922年に、東京帝国大学教授で植物学者の三好学博士が見付け、平安中期の女流歌人・伊勢大輔が「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」と詠んだサクラと同じ品種と鑑定。文学上や歴史的な価値が認められ、翌1923年に「知足院ナラノヤエザクラ」として国の天然記念物に指定された。
開花はソメイヨシノなどより約1カ月遅く、4月下旬から5月上旬に清楚(せいそ)な花を付けるのが特徴。赤褐色の葉も同時に芽吹くタイプで、花は初め赤みがあり、徐々に白くなるという。
カスミザクラの栽培品種とされ、種子はほとんどできず、繁殖力が極めて弱いが、戦後に県が接ぎ木による増殖に成功。現在は奈良公園事務所が知足院近くにある約1244平方メートルの苗圃(ほ)の一部を使い毎年約100本を接ぎ木。鹿の食害に遭わないよう5、6年かけて樹高3、4メートルまで育てた上で公園内などに植栽を進めている。
増殖の元になるのは1987(昭和62)年に県森林技術センターが知足院の木から組織培養で育成したナラノヤエザクラ。その枝から穂木を取り、オオシマザクラの台木に接ぎ木する。また新たにバイオ技術で育成された木を使った接ぎ木も行われている。
苗を管理するのは、同事務所の中谷貴司さんと武田順亘さんら。2人は同サクラの増殖に20年以上、取り組んでおり「苗圃の隅で高木の陰になる場所に植えた桜は、それだけで生育が悪くなる。日当たりや水はけの良さが重要」と育成の難しさを説明。また移植先の奈良公園については「地盤が悪く根が深く張らないこともあり、3年前の台風で多くの倒木が出た」と課題も指摘する。
奈良公園では外来種のナンキンハゼが繁殖するなど、従来の植生にさまざまな影響が出ており、同事務所は景観の回復に必要な植物を外から持ち込むのでなく、現地で育てる取り組みを実施。苗圃では各種のサクラやマツ、ヤナギ、モミジ、若草山のカヤ(ススキ)も育てられている。
ナラノヤエザクラの接ぎ木は活着率が7、8割。その後も育つ前に枯れるケースがあり、中谷さん、武田さんは「接ぎ木した後は祈るばかり」と話すが、同時に「やりがいのある仕事。樹木は手を入れれば入れるだけ、応えてくれる」とも。成果が出るまでに数年かかる仕事だが、意欲を失わず、地道な取り組みを続ける。
三好博士が鑑定した知足院のナラノヤエザクラは2009年の強風で倒れ、枯死したが、県森林技術センターが組織培養で育てた同じ遺伝子を持つ木を東大寺と県などが14年に同地に移植、育成している。ただ同院は普段、閉じられているため、一般の人が花を見ることはできない状態。
今月下旬ごろから開花
一方、県が15年に実施した調査によると、奈良公園内では、春日野国際フォーラムの東側、若草山山麓に至る傾斜地に位置する茶山園地を中心に約700本のナラノヤエザクラが確認されており、4月下旬ごろから開花、清楚な姿を楽しめる。また県庁に隣接する奈良公園バスターミナル南側には植樹された木と説明板が設置されていて分かりやすい。
ナラノヤエザクラは県の花で奈良市の市章にもデザインされているものの、開花時期が遅く、葉も同時に芽吹くため花が目立たないなど、実物は意外に知られていない面も。そんな状況を改善しようと、2001年には市民グループ「奈良八重桜の会」(上田トクヱ会長)が発足。奈良公園で進む植樹作業ととともに、ナラノヤエザクラの魅力発信に取り組んでいる。
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奈良新聞のコラム「国原譜」10日付でも以下のように書かれています。
桜の季節が足早に通り過ぎていくと惜しんでいたら、まだ後に奈良の八重桜が控えていますよと教わった。咲くのは4月下旬以降になるという。
ただこの奈良の八重桜、県の花に選定され奈良市の市章にもデザインされるなど広く親しまれているのに、本物を見る機会は意外に少ない。
何しろ元となっているのは大正期に東大寺知足院で確認された一株の木。接木による地道な取り組みで増殖が図られているが、樹勢が弱く育てるのが難しいため容易には増えない。
知足院の木は2009年に強風で倒れ枯死。その後にバイオ技術でよみがえった後継樹が移植されたが、根付くまでまだ時間がかかるよう。
それでも奈良公園内には約700本が確認されているというから、探してみたい。また東大寺周辺では東塔跡西側や大仏殿入堂口の西側、転害門にも植樹されていると案内がある。
全国各地の県の花を一覧しても、奈良の八重桜ほど地域性、歴史性の豊かな花はほかに見当たらない。百人一首に詠まれたイメージとも少し違う気がする白い花。あと半月待って、ぜひ本物と出会いたい。(松)
しばらく改修工事で休館だった入江泰吉記念奈良市写真美術館が4月2日から再開したということで見て来ました。
入江さんの文楽人形の写真が一堂に展示されていました。戦前の昭和15年くらいから20年まで。セピア色して時代を感じますが、人形も人形遣いの人の写真も素晴らしいものでした。どこかで昭和20年3月の大阪大空襲の時、入江さんの奥様がネガを必死で持ち出したことを聞いたのか、本で読んだことがあります。たぶんそのネガではないでしょうか。そして戦後の文楽の写真。
須田一政さんの写真は初めて拝見しましたが、落ち着いて見ることが出来ました。1940年お生まれとか。1970年代の東京の写真、全国あちこちのありふれた風景をきりとった写真、各地のお祭りの写真など印象的でした。
館長も4月から百々俊二さんから1966年生まれの大西洋(おおにし・ひろし)さんに交代されたとのことです。
入江泰吉記念 奈良市写真美術館のホームページです⇒http://www.irietaikichi.jp/
久しぶりに行くと、黒川紀章作の建物のまわりの池などの水がなくなっていました。改修の工事が行われたのはこの部分だったようです。建物の屋上部分の池などは防水上維持できなかったようで写真のようになっていました。ずいぶん雰囲気が変わりました。
下は改修前の様子。水辺がありました。
奈良県立大学が毎月発行されている、「EURO-NARASIA Q」という本があります。奈良県立図書情報館などで手にいれることができます。
このほど発行された21号です。
その中に毎月連載されている、声楽家でありNPO法人音楽の森理事長である荒井敦子さんが、「和と洋の花開く街・奈良」の第3回として、「餅飯殿の由来ーー箱屋勘兵衛縁起」を書かれています。餅飯殿や理源大師、辨財天などをくわしく紹介していただいています。(画像はクリックするとクリックすると拡大します)
口絵に絵本が載っています。
餅飯殿の由来は、以下の、もちいどのセンター街のホームページのガイドのページを見て頂くと絵本もよく読むことが出来ます⇒http://www.mochiidono.com/guide.html
いつも楽しみにしている、川嶌一穂さんの美ビット見て歩きが奈良新聞4月8日に載っています。
伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄と天台宗のすべて」についてです。
「延暦寺からはその後、道元、法然、親鸞、日蓮ら日本の仏教史を書き換える革新的な指導者が輩出した。なぜか?」
と書かれているように、大きな影響をもたらした人です。
4月12日から京都国立博物館において特別展が開かれるということです。
美ビット見て歩き 私の美術ノート *104 川嶌一穂
伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄と天台宗のすべて」
写真 杉木立ちの中の比叡山延暦寺根本中堂(2016年6月、同行の友人撮影)
日本天台宗の開祖・最澄は、天平神護二(766)年、あるいは神護景曇元(767)年、近江国(滋賀県大津市)に生まれ、弘仁十三(822)年、比叡山にて入寂した。今年令和四年は千二百年大遠忌にあたる。
延暦四(785)年、最澄は東大寺戒壇院で受戒して正式の僧になったが、三か月後に比叡山に入ってしまう。山中での修行が十年になる頃、宮中に出入りできる内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)の一人に任命された。
奈良仏教に批判的だった桓武天皇の後援を得て、最澄は遣唐還学生(げんがくしょう・公費短期留学生)に任命される。延暦二十二(803)年、遣唐使船に乗船したが、暴風雨に遭って引き返し、再出発を九州で待つことになった。
翌年、船団の第二船に乗船したが、第一船に正式の僧になったばかりの空海が留学生(るがくしょう・私費長期留学生)として乗っていた。後に真言宗の開祖となる空海はこのとき数え年三十一歳。どのようにして遣唐使の一員になれたかは分かっていない。前年の嵐が、空海の入唐に幸いしたと言えるだろう。
最澄は、入唐後九か月にわたり沿岸部の江南地方に滞在し、天台山で大乗仏教の戒律を受け、また龍興寺において大乗菩薩戒を受けることができた。
一方空海は首都・長安に入り、真言密教第七祖・青龍寺の恵果の弟子となった。滞在中、多数の経典、書籍、仏具を購入して二年で帰国したが、二十年という留学期間を大幅に縮めて帰国したためすぐには上京せず、太宰府に三年の間留まった。
空海が請来した文物を朝廷に報告するために作成した目録『弘法大師請来目録』(国宝・後期展示)が東寺に伝わるが、それは最澄の筆になるもので、もとは延暦寺に伝来した。つまり最澄が空海から借りて書写した写本である。
残念ながら今回の京都展には出ていないが、弟子に宛てた有名な最澄自筆の手紙『久隔帖(きゅうかくじょう)』の文中で、最澄は七歳年下の空海を「大阿闍梨」と呼んで、平出(へいしゅつ・該当する語を次行の頭に置くことで敬意を表すること)している。借用するときに礼を尽くした最澄と、命がけで請来した経典を何度も最澄に貸した空海の二人は、この後に袂を分かつことになる。
兵庫県一乗寺に伝わった現存最古の肖像画、『最澄像』(国宝・前期展示)は、色彩も美しい平安仏画の傑作で、最澄の厳しくも穏やかな人となりをよく伝えている。
延暦寺に伝わる『七条刺納袈裟』(国宝・前期展示)は、何と最澄が唐の天台山で、師の行満から相伝した天台宗六祖・湛然の袈裟という。
国宝の阿弥陀堂で有名な京都市伏見区日野の法界寺から、今回秘仏の『薬師如来立像』(重要文化財)がお出ましになった。最澄自刻の延暦寺根本中堂の本尊の姿に近い像と伝わるが、切金を施した衣紋の装飾がとても美しい。
岩手県中尊寺の『一切経』(国宝)は、平安貴族の趣味の洗練を今に伝えている。紺紙に金銀字の清衡経が前期に、紺紙に金字の秀衡経が後期に展示される。
もと長岡京市の長法寺に伝来した『釈迦金棺出現図』(国宝)は、織田信長による比叡山焼き討ちの折に長法寺に移動したという。入棺後に、母の摩耶夫人を慰めるために釈迦が棺から立ち上がる場面を描く。
延暦寺からはその後、道元、法然、親鸞、日蓮ら日本の仏教史を書き換える革新的な指導者が輩出した。なぜか?
最澄は、中国仏教の伝統を受け継いだ国家仏教としての側面が強い南都仏教と対決して、天台教学を打ち立てた。『般若心経』が説く「是諸法空相」(この世におけるすべての存在するものには実体がない)ではなく、「諸法が実相である」(現象世界が真実のものである)と説くのである。日本人のアニミズム的自然観や山岳信仰を取り入れた「日本型仏教」の誕生だ。
わたしの乏しい経験だが、海外の旅行先で路傍の草花を眺めると、園芸植物は別として、どこも植物相が日本より貧弱だ。地形、気候、植物が実に多様な日本で暮らしていると、この現象世界が「空(くう)」だとは実感できなかったのではないか。それよりも「山川草木悉皆成仏」という自然観がしっくり来る。だがそれは伝統的仏教からすれば驚くべき変容であった。仏教が「日本型」に変容したのである。
本展は、鎌倉仏教や禅宗にも受け継がれる「日本型仏教」の礎を築いた最澄と、その後の天台宗の歴史を知る貴重な機会だ。
=次回は5月13日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。
メモ
京都国立博物館 京都市東山区茶屋町527。電話075(525)2473。https://saicho2021-2022.jp/ 近鉄丹波橋駅にて乗換え、京阪電車丹波橋駅から七条駅下車、東へ徒歩7分。会期は、あさって4月12日(火)から5月22日(日)まで(月曜日休館)。一部展示替えあり(文中の「前期」は4月12日〜5月1日。「後期」は5月3日〜22日)。
参考 立川武蔵著『最澄と空海―日本仏教思想の誕生』角川ソフィア文庫。
訂正 前回3月11日付け「春日神霊の旅」展の文中、上段後ろから4行目「雌の白鹿」を「雄の白鹿」に訂正致します。
4月になりましたが、2007年4月13日、奈良もちいどのセンター街の夢CUBEがオープンしました。この春いつしか15周年を迎えました。
オープン当時の当ブログです。⇒http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_b032.html
また、奈良まほろばソムリエの会の鉄田専務理事のブログにもくわしく載せて頂いていました。⇒https://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/aea5e8a76b66cf89bab0acff471629d0
現在の夢CUBEの様子です。(2022年3月21日撮影)
現在のお店です。9スペースすべて営業されています。最近募集したAのスペースには8件の応募があり、書類審査、プレゼンテーション、面接を経て無事オープンされました。15年経っても、盛業であり、多数の応募があるということは有り難いことです。
(画像をクリックすると拡大します)
10周年には記念誌を発行、足跡を記録に残しました。
そして、この5年間も多くの方が夢CUBEで起業してくれました。一覧です。
すべて把握できていませんが、卒業生の皆さんは、もちいどのセンター街や奈良市の中心市街地の商店街などで現在も盛業中です。
また西大寺、生駒などご自分の住まいの近くで営業されている皆さんもおられますし、ネットショップで活躍されたり、製造して卸に回られている方もおられます。
先日も、東京から経済産業省の中小企業庁から高官と大阪の近畿経済産業局から5人連れで視察と意見交換に来ていただきました。
夢CUBEともちいどのセンター街の実践を高く評価いただきました。ありがとうございました。
15年を迎えて、さらに夢CUBEともちいどのセンター街は皆さん力を合わせて頑張っていきたいと思います。
皆さま、よろしくお願いします。
アカデミー賞を受賞したということで話題の『ドライブ・マイ・カー』は近くでは、午前10時からは高の原イオン、午後5時からは大和郡山イオンで上映していることを知り、夕方の部を見て来ました。上映時間は3時間ということでしたので、集中できるか少し心配しましたが、ぐいぐいとストーリーが進みますので、あまり長時間という感じはしませんでした。
Introduction
原作:村上春樹 × 監督:濱口竜介
映画史を書き換える至高の179分! 新たなる傑作の誕生
数々のベストセラーを生み出してきた作家・村上春樹による、珠玉の短編小説「ドライブ・マイ・カー」。妻を失った男の喪失と希望を綴ったこの作品に惚れ込み映画化を熱望、自ら脚本も手掛けるのは、いま世界が最も熱い注目を寄せる濱口竜介監督。これまで、カンヌ(『寝ても覚めても』コンペティション部門出品)、ベルリン(『偶然と想像』銀熊賞受賞)、ヴェネチア(共同脚本作『スパイの妻』銀獅子賞受賞)など世界三大映画祭を席巻し、その名を轟かせてきた。待望の最新長編作となる本作も見事、本年度のカンヌ国際映画祭で日本映画としては史上初となる脚本賞を受賞。加えて、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞の独立賞も受賞し、4冠獲得の偉業を果たした!
これまで、圧倒的な脚本力と豊かな映画表現で、人間がもつ多面性や複雑な感情をあぶりだしてきた濱口監督。本作では原作の精神を受け継ぎながらも、「ワーニャ伯父さん」、「ゴドーを待ちながら」という時代を超えて愛されてきた演劇要素を大胆に取り入れ、ストーリーと映画内演劇が重層的に呼応しあう驚異的な物語を紡ぎだした。さらに広島・東京・北海道・韓国などのスケール感あるロケーションと、名手・四宮秀俊撮影による美しさと厳しさが溶け合う映像美は観る者を魅了し、物語へと引き込んでいく。
以下公式サイトをご覧下さい⇒https://dmc.bitters.co.jp/
(追記)
奈良新聞4月8日付の記事です。(画像をクリックすると拡大します)
令和4年(2022)4月23日(土)~6月19日(日)奈良国立博物館では「大安寺のすべて展」が開かれます。
わが国最初の天皇発願ほつがんの寺を原点とし、平城へいじょう京きょうに壮大な寺地と伽藍がらんを構えた大安寺。奈良時代、東大寺や興福寺などとともに南都七大寺の1つに数えられ、一時期を除き筆頭ひっとう寺院としての格を有していました。1250年の時を経て今も大安寺に伝わる9体の仏像は、奈良時代を代表する木彫もくちょう群の1つです。かつての伽藍の発掘調査で出土した品々からは、往時の壮大な堂塔や華やかな営みの様子をうかがい知ることができます。また、菩提僊那ぼだいせんな、空海くうかい、最澄さいちょうをはじめ、1,000人にも及ぼうかという国内外の僧侶たちがここに集い、後に諸方面で活躍しました。天智天皇の発願により造られたとみられるかつての本尊・釈迦如来像は、今は失われてしまいましたが、平安時代には奈良・薬師寺金堂の薬師三尊像よりも優れていると評され、古代から中世の仏像制作に影響を与えました。本展では、まさに時代をリードする大寺院であった大安寺の歴史を、寺宝、関連作品、発掘調査成果など様々な角度からご紹介します。
余談ながら、大安寺の奈良時代のCG(コンピョーターグラフィック)再現プロジェクトに寄付したら、大安寺の冊子、大安寺の散華、大安寺の絵はがき、などとともに「大安寺傘」が送られてきました。
外から見ると黒の八角形です。瓦屋根でしょうか。
中を見ると、七重塔を下からのぞきあげたデザインでしょうか。とても斬新です。
奈良大安寺のホームページです⇒http://www.daianji.or.jp/
奈良大安寺では、このほど作成されたCG(コンピューターグラフィック)で奈良時代の大伽藍を拝見できるということを報道で知りましたので、大安寺にお参りに行ってきました。
先ず、本堂をお参りしました。
桜も咲いています。ご住職の河野良文さんがわざわざ出てきて頂き、大安寺のいろいろな解説をしていただきました。どうもありがとうございました。
嘶堂(いななきどう)では天平秘仏の馬頭観音を拝観することが出来ました。
またできあがったばかりのCG(コンピューターグラフィック)がありました。発案されたという河野副住職が上手にCGを操作されていました。歩いてお参りしたり、浮かんで上空から伽藍を拝見できます。
大安寺大伽藍とまわりの風景が継ぎ目なくうまくつながっています。とくにふたつの七重塔は実際の再現はなかなか難しいと思われますが、
立体感あふれてCGで拝観できました。天平の頃の大規模な境内と共に周辺や若草山や青垣の山々もうまく表現されています。
わたしも操作させていただきましたが、ゲーム機感覚で動かす必要があり、不慣れなわたしではすこしたどたどしい感じでした。
ちょうど朝日新聞の方が取材されているところでした。
以下は奈良新聞が伝えています。【ホッとニュース】
大安寺伽藍 CGで復元
南都七大寺の一つ大安寺(奈良市大安寺2丁目)で、奈良時代の伽藍(がらん)がCGで復元された。CGはゲームコントローラーを使って操作することで、当時の伽藍を体験できることが特徴で、境内に体験機器を設置している。
大安寺は奈良時代、約26万平方メートルの境内地に90棟余りの堂塔が建ち並び、東大寺ができるまで国家筆頭寺院だった。現在は約1万平方メートルに縮小して周囲には住宅などが建ち、伽藍の復興が困難なためCGによる復元プロジェクトに取り組んだ。
河野副住職の写真も奈良新聞から拝借。
そのあと讃仰堂(宝物殿)の仏様を拝観しました。
4月23日から6月19日まで多くの仏様は、奈良国立博物館での大安寺特別展に出陳されるということでした。
くわしくは大安寺のホームページをご覧ください。⇒http://www.daianji.or.jp/
ちょうど毎日新聞奈良版に奈良まほろばソムリエの会の森田康義さんが大安寺のことを書かれていますので紹介します。
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