美ビット見て歩き *97
13日の奈良新聞に川嶌一穂さんの美ビット見て歩き*97が載っていました。
戦争が終わって76年になろうとしています。多くの戦争体験の方は高齢になられてきました。
また多くの戦争の名残りも少なくなってきているようです。
そんな中、川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは「多くの人の必死の努力でモノが残った。心から敬意を表します。人は大切なこともすぐ忘れてしまうから」と書かれています。
わたしたち団塊の世代は直接戦争を体験していませんが、戦争の名残りの中育ちました。大切なことは忘れないようにしたいものです。
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美ビット見て歩き 私の美術ノート *97 川嶌一穂
戦災建造物 東京都東大和市指定文化財 旧日立航空機立川工場変電所
写真 旧日立航空機立川工場変電所(東大和市役所HPより)
一年延期して無観客で始まった東京オリンピックの閉会式も済んで、選手の素晴らしい競技だけは鮮やかに目に残った。
そして明後日15日は、夏の甲子園全国高校野球大会で2回戦が始まる頃だ。酷暑の中、正午の甲高いサイレンの音を合図に、白いユニフォームを着た若者が黙祷を捧げる姿をテレビで見ては、ああ敗戦からもう何十年も経つのだと、毎年驚くことになる。
両親が生きていたときは、必ず「朝から暑い日やったなあ」、「電灯に黒い布を掛けなくてもいいので、夜明るいのがうれしかった」から始まって、その日はおきまりの昔話が続いた。
若い頃は、あまり熱心に聞くこともなかったが、離婚して身を寄せてから両親を見送るまで四半世紀、子ども時代を入れると40年以上も一つ屋根の下で一緒に暮らしていると、両親の物語が少しずつ少しずつ我が身に染み入ってくるのだった。
大正の終りに生まれた父は、昭和19(1944)年に肋膜炎で師範学校を1年休学し、外地に行くことなく国内で敗戦を迎えたが、同級生は実に半数以上が南方で戦死したそうだ。それからの父は生涯、若くして逝った同級生たちに負い目を感じながら生きたように思う。
「ミシンと機関銃って、音が似てるでしょ」と始まった、高校の数学の先生のお話も忘れ難い。名古屋の元ミシン工場が機関銃を作る工場に変わり、学徒動員で働いていたとき、グラマンの機銃掃射を受けて逃げまどった。パイロットの顔まで見えるほどの低空飛行で、笑っているように見えたそうだ。何とも言葉がない。
図書館で手に取った石井英夫著『いとしきニッポン』に、「西の原爆ドーム、東の変電所」と言われる戦災建造物が東京の西郊・東大和市にある、とあった。全く知らなかった。
さっそく市のホームページや、『東大和市史資料編I』で調べてみた。昭和13年、当時の大和村に軍用機のエンジンを製造する日立航空機立川工場が完成する。敷地内にある変電所は、高圧電線で送られてきた電気の電圧を下げて工場へ送る重要な施設だった。
昭和20年2月と4月の米軍機の空襲により工場は壊滅。従業員、動員学生、住民など100人以上が犠牲となった。変電所も機銃掃射や爆弾の破片によって外壁に無数のクレーター状の穴ができたが、建物本体は致命的な損傷を受けなかった。
戦後は、工場跡地が昭和30年に米軍大和基地として収用されて以来、昭和48年に返還されるまで防衛施設庁や東京都に対して粘り強い返還要請が市をあげて行われた。
その後、昭和55年に変電所周辺を更地にする都の公園整備計画が公表されると、主婦を中心とした郷土史研究グループや旧日立航空機関係者の10年以上に及ぶ地道な活動が行われ、保存が決まった。
多くの人の必死の努力でモノが残った。心から敬意を表します。人は大切なこともすぐ忘れてしまうから。
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。
=次回は9月10日付(第2金曜日掲載)=
メモ 旧日立航空機株式会社変電所 東京都立東大和南公園内。東京都東大和市桜が丘2−106−2。西武拝島線・多摩モノレール「玉川上水」駅下車、徒歩5分。変電所に関する問合わせは、東大和市立郷土博物館(東京都東大和市奈良橋1−260−2)まで。コロナ禍のため、公開日程は未定。
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