美ビット見て歩き
川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは、秀吉の話題です。
秀吉の桃山美術や大和猿楽などあらためて文化面への貢献を知ることです。
秀吉の足跡は、あちこちに残されているものです。
美ビット見て歩き 私の美術ノート *95 川嶌一穂
秀吉の遺したものー高台寺と能
写真 広島県福山市沼名前(ぬなくま)神社能舞台(平成29年9月著者撮影)
先月14日付の本欄で取り上げた「豊臣の美術」展は5月16日まで開催の予定だったが、緊急事態宣言発令による休業要請を受けて4月24日を最後に閉幕し、文字通り「夢のまた夢」となってしまった。「行けない展覧会」を紹介した結果となり、まことに申し訳ない。まして何年も前から準備してこられた関係者は、さぞがっかりされたことだろう。
閉会後、未練がましく展覧会図録を見ていると、「滅亡の道をたどった豊臣氏に直接関わる美術工芸関係の遺品は、勝者である徳川氏に数的には及びませんが…」という挨拶文が目に留まった。徳川が大坂城の落城後、豊臣時代の盛り土をすっかり埋めた上に築城し直していることを考えれば、それでも豊臣の遺品はよく残ったと言うべきだろう。
例えば、秀吉の没後に正室・北政所(ねね)がその菩提を弔うために建立した京都東山の高台寺。秀吉の坐像と北政所の木像が安置されている霊屋(おたまや)の厨子に施されている蒔絵は、高台寺蒔絵としてよく知られている。外から拝見するので細部はよく見えないが、筆者は大昔、学生時代に古美術研究実習で訪れ、間近で拝見することができた。しなるススキの葉の上の露、花いかだを浮かべて渦巻く水のうっとりするような曲線。繊細なのに伸びやかさをあわせ持つ桃山工芸の洗練の極致だ。
境内をさらに上っていくと、斬新なデザインの茶室がある。傘亭、時雨亭の二席とも、伏見城から移築されたと伝わる桃山建築の遺構である。
能もまた秀吉の遺したものの一つである。
「能十番覚え申し候。松風、老松、三輪、…。右の能をよくよく涸らし候いて、重ね習い申すべく候。かしく。三月五日 袮(ね) 太閤」(天野文雄著『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』講談社選書メチエ所収の原文を読みやすく表記)。
文禄の役で肥前名護屋城に出陣していた秀吉が、文禄二年(1593)に大坂の北政所に宛てたこの手紙は、晩年になって始めた能の稽古に夢中になっている秀吉の無邪気な姿をよく伝えている。それにしても、曲のごくごく一部の仕舞を覚えるのさえ、初心者は何日も何十日もかかるのに、なかなかの大曲を十番も覚えるとは、大した才能の持ち主である。
既存曲の稽古にとどまらず、秀吉は人にも見せ、まるで落語の「寝床」の世界の中、事件が起きた。大坂の宇喜多秀家邸で催された能で、秀吉が『源氏供養』を演じているとき、観世大夫が居眠りをしてしまった。秀吉による処罰は、家伝来の秘伝書の召し上げ、配当米の停止という厳しいものだった。後に許されたとはいえ、茶の湯に夢中だった秀吉が利休に切腹を命じたのはわずか2年前のことだ。一代で天下人にまで成り上がった秀吉の暗黒の一面と言うべきか。
それでも能にとって、秀吉はやはり有難い存在だ。応仁の乱以降寂れていた興福寺薪能と春日若宮祭能の二つの神事を復興させ、神事を担う観世、宝生、金春、金剛の大和猿楽四座に配当米を支給したことは、とりわけ奈良にとって特筆すべき秀吉の決断である。そのことが、能が徳川時代に式楽として保護されて、今日に繋がる結果となった。
写真は、古くから風待ち港として賑わった広島県福山市鞆の浦の山手に鎮座する沼名前(ぬなくま)神社境内に建つ重要文化財の能舞台。保護のために板を貼り回してあるので中は見えなかったが、伏見城内にあった秀吉遺愛の能舞台を、元和年間の伏見城解体のさいに二代将軍秀忠から福山城主が拝領したと伝わる。
現在は固定されているが、部材に番号、符号が付けられ、パネル式の屋根を持つ移動式の能舞台だった。運ばされる人足はいい迷惑だろうが、いかにも秀吉らしい。吉野や高野山で催された能の舞台は実はこれだったかも知れない、などと想像するのも楽しい。
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。
=次回は7月9日付(第2金曜日掲載)=
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