尾田栄章さんの講演会「行基と長屋王の時代」へ
寒さがやや和らいだ1月10日、尾田栄章さんの講演会がありました。2時の定刻には100名を超す皆さんがお集まりになりました。
最初に、主催の坂口紀代美記念館館長からご挨拶があり、奈良市長や河内長野市長のご挨拶のあと、尾田栄章さんの講演会が始まりました。
メモを残しておきます。
(この写真は拝借)
・7万年前、アフリカから世界に人々が移動した。これは土地を求めるものであるが、土地も水のある土地を求めるものであった。
・水は切っても切れない大切なものである。水がなければ単なる砂漠である。
・地面より低い水はあっても利用できない。
・近鉄奈良駅の行基像は大仏殿を向いて立っているが、実は大阪で行基がなした治水事業の方を向きたいのではないかとわたし(尾田さん)は考える。
・行基さんの史料で、天平十三年記と年代記が残っている。年代記はやや信憑性が薄いという説もあるが、わたしは両方を評価している。
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・行基さんが造ったあるいは改修した池が3つも1300年後の今も実働しているのはたいへんなことである。
・「行基さんが狭山池をつくらはった」という伝承を子どもの時から聞いている。
・狭山池は、行基が小さな改修ではなく大きな改修をされたと見るべきだ。樋のある場所でそれはわかる。
・鎌倉時代の重源上人の残した碑文からもわかる。
・ぜひ、狭山池博物館に行ってみてもらいたい。ただ行基の改修をしたところはわずかであると表示されているのは納得できない。大改修をしたところこそ行基が行った改修である。
。河道外貯留ダムも造ったのは行基が最初であると考える。フランスのセーヌ川のダム湖も後世つくられ今も実働している。
・河道外貯留ダムは大阪の久米田池などがそうである。そばの岸和田の久米田寺は八木だんじり祭で有名である。
・兵庫県の伊丹市の昆陽池(こやいけ)も大きな池である。
・大きな川を3つも超えていかねばならない。そこにも3つの大きな橋を造っている。
・橋では、木津川市の泉大橋そばには泉橋院がある。
・山崎橋では近くに久修院がある。
・淀川の近くに堀四所がある。近くの沼地を干拓した壮大な事業である。
・そういう大きな事業に私的な僧侶集団だけでなし得るものではない。行基の背景には長屋王の力があったと考えられる。
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・養老元年4月23日詔で、行基集団は糾弾されている。
・その後数年の間に行基の僧尼令違反などをとがめたのはだれか。
・藤原不比等と石上麻呂(かつて天智天皇の大友皇子のそばにいたが)であると考えられる。
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・右大臣の長屋王が成し遂げたかったのは、養老5年の「良田百万町歩開墾計画」と養老7年「三世一身法」であった。
・良田とは水を確保された土地である。
・長屋王と吉備内親王、その皇子が自害においこめられた。
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・隆福院は養老2年4月23日という農繁期に起工されていることにも注目する必要がある。
・畿内四十九院のうち十三もの尼院がある。多くは僧院と尼院が併設されている。
・中でも深井尼院は尼院だけである。
・行基集団では、女性も活躍する集団であった。
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最後に、行基さん大感謝祭のことに触れられた。今後も八十年以上続けるので、次の世代さらに次の世代に
行基さんの偉業を讃えて続けていくことを願っていると締めくくられた。
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実に2時間以上に及ぶ講演でした。そのあと質疑応答もありました。参加者には20ページ以上の資料も配付されました。
本のサイン会も行われました。
尾田さん、お疲れさまでした。主催された坂口紀代美記念館の皆さま、お疲れさまでした。
(追記)
当日の様子がYOUTUBEにアップされました。
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