美ビット見て歩き*84
奈良新聞で毎月楽しみにしている、川嶌一穂さんの美ビット見て歩きの今月は、「昭和の子どものお手伝い・・・母と一緒に料理や編み物」です。
今回、読みはじめて懐かしいお話に興味があふれました。
まず写真は、東大寺南大門でのスナップです。弟さんといとこさんと柱に3人、どなたが撮られたのか素晴らしい写真です。
そして一条通の𠮷寅という八百屋さんの話。その息子さんが吉川啓右(けいすけ)さん。いま花芝でレストラン「吉川亭」の名物シェフ、わたしの小学校、中学校以来の同級生です。
川嶌さんはお母様との料理や編み物の手伝いの様子をよく覚えておられます。
二〇一〇六一六の漬け梅の母のラベルも古びにけるかな 一穂
川嶌さんには「昭和の子どもたち」をぜひエッセイを書きつないでいただきたいと思います。
美ビット見て歩き 私の美術ノート *84 川嶌一穂
昭和の子どものお手伝い
写真 昭和34年頃の東大寺南大門で、従姉と弟と。柱は痩せ、かなり傷んでいる。
「外出は食料と日用品の買い物だけ」という生活を3か月近く続けたのは、物心着いてから今回がはじめてだ。少し時間がかかったが、そのうち次第に体に馴染んで、地元の個人商店で買い物していた子どもの頃のことをよく思い出した。
昭和30年代、まだ家に冷蔵庫がなかった頃、母はほとんど毎日、野菜は一条通りの吉寅(よしとら)さん、魚は東笹鉾町の西川鮮魚店へ通った。和菓子の萬林堂さんは、当時まだなかった。
吉寅の大将は野太い声で真桑瓜でも西瓜でも「今日はええのが入ってるで」と勧め上手で、品物は確か。木戸をくぐった奥にはちょっとした生まものもあって、蝿避けの大きな線香が置いてあった。竹の簀の子に入ったカマスゴを買って、さっと湯通しして酢醤油で食べるのは美味しかった。大将と同じ前掛けをして甲斐甲斐しく働いていた息子の啓ちゃんが、いま花芝商店街の吉川亭の名物シェフである。
家ではよくお手伝いをした。頭を2cmほど切り、切り口に塩をまぶして渡された胡瓜を、「はい、ありがと」と言われるまで、頭と胴体をこすり合わせる。今よりも胡瓜のアクが強かったのだろう。
グリンピースを鞘から出すのは、楽しかった。ふっくらと膨らんだ鞘の端を親指で強く押すとパカっと、かすかな音がして割れる。筋に沿って開けていくと、生まれたての赤ちゃんの足の指のような豆が現れる。それを親指で落として行く。豆がステンレスのボールに落ちる時、こんころこんと可愛い音がした。
一番怖いお手伝いは、柏餅の漉し餡を作るときだ。母が両手鍋に煮上がった小豆を汁ごとこぼすのを、下でわたしがさらしを縫った袋を手に持って受けるのだが、湯気で熱いの何の!しかも袋はすぐにぱんぱんになって、重たいの何の!「手ぇ、放したらあかんよ」と母の檄が飛ぶ。熱いうちに濾さないといけなかったのだろうが、あれは怖かった。
昔はセーターも手編みだった。毛糸は売っている綛(かせ・毛糸を輪にして束ねたもの)のままでは編みにくいので毛糸球にする。その時も子どもの出番だ。
両手の肘を曲げて胸の前で立てる。その腕に母がそーっと綛をかける。母が向かい合わせに座って、自分の右手に毛糸を巻き取っていくのだが、子どもは両腕を丁度いい間隔に保つのがけっこう大変なのである。両腕をきつく張りすぎると毛糸が出て来にくいし、ゆるければ綛が外れてしまう。小学校も高学年になると、毛糸を引っ張りやすいように腕ごと回したりして、もうすっかりベテランである。
わたしがうんと小さいとき母が編んでくれた赤いカーデガンが嫌いだった。赤色一色ではなく3種類ほどの同系色の毛糸を編んだもので、手首のゴム編みと前立ては濃い赤色、腕と身頃も2色に編み分けられていた。
何十年も経ってから、「あのカーデガン、今なら手編みのパッチワークでお洒落やろうけど、あの頃は嫌やったわ」と、何気なく母に話すと、返事が返ってこない。ふと見ると、膝の上にパラパラパラと大粒の涙がこぼれていた。
「しまった!」
敗戦後すぐの物の無い時代に子どもを育てるのがいかに大変だったか、言葉にならなかったのだろう。百人一首の「つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」だった。
二◯一◯六一六の漬け梅の母のラベルも古びにけるかな (一穂)
=次回は7月10日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。
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