美ビット見て歩き*83 森鴎外著 『澀江抽斎』
奈良新聞でいつも楽しみにしている川嶌一穂さんの5月の美ビット見て歩きは、森鴎外の書いた『澀江抽斎』についてです。江戸末期の津軽藩医官の日々を伝記にしたとのことです。
私もちょうどコロナ休業のときに森鴎外の奈良での五十首という短歌についての本を読んだばかりでした。今月は森鴎外が取り上げられています。森鴎外は多才で医師であり小説家であり晩年、帝室博物館総長をつとめ奈良にも毎年正倉院の曝涼のときに滞在しています。かつて島根県津和野町の地味な森 林太郎の墓を訪れたことを思い出します。
美ビット見て歩き 私の美術ノート *83 川嶌一穂
森鷗外著「澀江抽斎」
写真 妻・志げ宛大正11年(1922)5月5日付森鷗外手紙(「鷗外の遺産1」幻戯書房刊より)
以前「無人島に持って行く一枚の絵」の話をしたことがあるが、きょうは「無人島に持って行く一冊の本」のお話。私にとっての一冊は森鷗外(文久二年<1862>〜大正十一年<1922>)の晩年の作品「澀江抽斎」だ。
抽斎澀江道純(文化二年<1805>〜安政五年<1858>)は津軽藩の医官で、考証学者。鷗外は江戸時代の武鑑(大名や幕府役人の氏名、家紋、石高などを記した年鑑)を収集する過程で、古書店に出る武鑑の蔵書印からその名を知り、興味を持った。
江戸末期に日々を生きる一人の医官の伝記を書くに当たって、鷗外はその家族から交友関係までを詳しく描写し、同時に大正という時代にそれを調べて行く様子を並行して記す。たとえば、抽斎の子・保(たもつ)さんの存在が分かったが、次女の杏奴が病気になったのでなかなか会いに行けないでいると、保さんが鷗外を職場に訪ねてくれた…などとあって、読者は「ああよかった。それで?」と次を読みたくなる。
抽斎は伝記「澀江抽斎」の中ほどで、その年江戸市中で2万8千人の犠牲者を出した虎列拉(コレラ)のために五十四年の生涯を閉じてしまうのだが、残された家族の物語は淡々と続き、大正五年の記述で、執筆する鷗外の「今」に物語が合流する。読後、日本古来の学問とそれを担った人々が否応なく流されていった時代の怒涛の響きがいつまでも耳に残る。
このご時世で、古い「鷗外選集」を本棚から引っ張り出して何度目かの再読をしたのだが、今回新しい発見があった。鷗外は「その九」で、保さんから資料を受け取ったことを記し、続けて「ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである」と言う。
となると作品「澀江抽斎」は、子の保さんから聞いた話なのか、それとも鷗外の創作なのか、ずっと気になっていた。それが何と、鷗外の蔵書を「鷗外文庫」として所蔵する東京大学附属図書館がインターネット上で公開しているデータベースに、保さんから受け取った資料の写しが含まれていることが分かった。これでインターネットにアクセスできる環境があれば、鷗外が保さんから受け取った資料と「澀江抽斎」とを読み比べて、創作の跡を辿ることができる。家にいる楽しみが一つ増えた。
鷗外は、大正六年に帝室博物館総長に任ぜられ、毎年秋に正倉院曝涼のため奈良に出張した。そのとき滞在した官舎はもう無いが、門だけが今も奈良国立博物館敷地の北東の隅に「鷗外門」として保存されている。
写真は、鷗外が家に送った手紙に添えた蓮華の押し花と、その包み紙に書かれた「アンヌにとらせたい正倉院の中のゲンゲ」の文字。鷗外の次女・杏奴は当時13歳。今は正倉院も美しく整備され、塀で囲まれているが、敗戦後すぐは高床の下でホームレスが雨露をしのいでいたという。蓮華の花は、大正末年のちょうど今頃、正倉院のどの辺に咲いていたのだろう。
この手紙のわずか2か月後に、鷗外は「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という有名な遺言を述べ、一切の治療を拒否して逝った。
=次回は6月12日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。
メモ
「東京大学附属図書館」の「鷗外文庫書入本画像データベース」中、保さんの書いた「抽斎歿後」(157ページ)では、「夫婦で外出した時、途中で激しき雷鳴に出遇つた。母の話に、直ぐ頭の上で、天が二つに裂けた(と?)見えて。其の刹那に、天上から地上に向つて、一直線に、火柱がたつたやうな感がした。間もなく、耳を貫く如く音がして、大地が震動し、夫婦共に覚えず地上へ倒れた。…」とある。
鷗外「澀江抽斎」(その六十四)には、「五百(いお・抽斎の妻の名)と道を行く時の事であつた。陰つた日の空が二人の頭上に於て裂け、そこから一道の火が地上に降つたと思ふと、忽ち耳を貫く音がして、二人は地に僵(たふ)れた…」とある。素材と作品との微妙な関係が非常に興味深い。
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