鴎外『奈良五十首を読む』
しばらく前に買ってあった、鴎外『奈良五十首を読む』を読みました。中公文庫、1000円+税。
裏表紙にはこのように書かれています。
大正5年、陸軍軍医総監の職を退いた鴎外は、一年半後、帝室博物館総長に任ぜられ、度々奈良に滞在する。在任中の歌で編まれた「奈良五十首」は、『明星』大正11年1月号に一挙連載されたもので、茂吉は「思想的叙情詩」と題し、石川淳はそこに鴎外晩年の「物理的精神的な軌跡」を見ようとした。総体としての五十首に込められた本当の含意とは。
大正7年(1918)から大正10年(1921)まで毎年正倉院の曝涼のとき鴎外は奈良にきていました。11月頃の1ヶ月ほど、今の奈良国立博物館の北東にある官舎に泊まり(鴎外の門として今も残っています)。前任まではもっと良い旅館やホテルなどに滞在したそうです。森鴎外は晴れの日は曝涼に立ち会い、雨の日には奈良の社寺などをあちこち回わり研究しています。そのときに作られた短歌五十首です。鴎外も多才で小説など多方面に多くの作品を残していますが、短歌も残しています。
また家族などに多くの手紙葉書を残しています。
この著書で、著者は鴎外の短歌を推察も交えて解説をしています。短歌だけ読むとわかりにくい短歌もありますが、鴎外の秘められた考察はなかなか鋭いものがあるようです。
東京から奈良への旅にて4は詠んでいるとのことです。
(4)木津過ぎて網棚の物おろしつつ窓より覗く奈良のともし火
(5)奈良山の常磐木はよし秋の風木の間木の間を縫ひて吹くなり
(6)奈良人は秋の寂しさ見せじとや社も寺も丹塗にはせし
(7)蔦かづら絡む築泥の崩口の土もかわきていそぎよき奈良
(8)猿の来し官舎の裏の大杉は折れて迹なし常なき世なり
昨年の正倉院展(東京)で掲示されていた有名な歌
(10)夢の国燃ゆべきものの燃えぬ国木の校倉のとはに立つ国
(11)戸あくれば朝日さすなり一とせを素絹の下に寝つる器に
(12)唐櫃の蓋とれば立つあしぎぬの塵もなかなかなつかしきかな
など正倉院の曝涼に立ち会った歌があります。
また奈良のあちこちの寺で詠んだ短歌があります。
東大寺 (25)盧舎那仏仰ぎて見ればあまたたび継がれし首の安げなるかな
興福寺慈恩会 (31)なかなかにをかしかりけり闇のうちに散華の花の色の見えぬも
元興寺址 (34)落つる日に尾花匂へりさすらへる貴人たちの光のごとく
十輪院 (35)なつかしき十輪院は青き鳥子等のたづぬる老人の庭
般若寺 (36)般若寺は端ぢかき寺仇の手をのがれわびけむ皇子しおもほゆ
新薬師寺 (37)殊勝なり喇叭の音に寝起きする新薬師寺の古き仏等
大安寺 (38)大安寺今めく堂を見に来しは餓鬼のしりへにぬかづく恋か
白毫寺 (39)白毫の寺かがやかししれびとの買ひていにける塔の礎
などの歌がある。
森鴎外は文久2年1月19日(1862年2月17日 ) - 1922年(大正11年)7月9日。
森鴎外が奈良を訪れたのは晩年のことでした。津和野でお墓(森 林太郎の墓)を訪れたことを思い出します。
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