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4/27より、営業時間短縮(22時まで→19時まで)を実施していましたが、
奈良県の緊急事態宣言の解除ならびに、近隣府県の解除を受けて
段階的に戻していくこととします。
6/1(月)~ 20時まで
6/11(木)~ 21時まで
6/21(日)~ 22時まで(通常営業)
なお、上記は目安ですので駐車状況によっては前倒しとなることもあります。
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奈良もちいどのセンター街協同組合
奈良市餅飯殿町12番地 夢CUBE2F
TEL:0742-22-2164
FAX:0742-27-9003
nara_mochiidono@yahoo.co.jp
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瑜伽山(ゆうがやま)園地が24日にオープンし、庭園は自由に見学できるということでしたので、見学してきました。
明治のはじめくらいまで、興福寺の大乗院、一乗院などと同じく松林院という子院だったそうです。公家の子息が住職を務めていたとかと聞きました。明治以降は、上記のような経緯があったとのこと。戦後は裁判所所有となり官舎などになっていたようですが、その後、何も使われない雑木が茂るもと屋敷のようになっていたと思います。また何年か前には土塀ごしの木が外を歩く人に向かって倒れ、危険であるとも言われていました。
一部の反対はありましたが、何度かの公開説明会などがあり、無事オープンにこぎつけました。ただ時節柄、開園の催しも行われず静かに開園しました。
MAPですが、上は西です。右手に北、下が東であり市内循環道路をはさんで奈良公園の飛火野が広がる好立地です。
交流・飲食施設や宿泊施設のオープンはまだ先のようです。6月5日からとも聞きます。
入り口あたり。
交流・飲食施設
茶室
交流・飲食施設や宿泊施設はどうなるのか期待されます。
北の鷺池の浮見堂からの遠景です。
帰り道に興福寺本坊の南の大湯屋のある一画を通りました。数十年前、私どもが子どもの頃はフェンスがなく自由に遊ぶことができました。
たしか、ひょうたん池とかいっていましたが、池を中心とする庭園あとでした。やはりよく似た日本庭園に思えました。
フェンスの東からの風景です。建物は大湯屋です。
「スマイルバスで行くディープな吉野の旅」を読んで早速この前から行きたいと思っていた吉野・喜佐谷下り宮滝へ出かけました。
本に書いてあるように、橿原神宮駅から近鉄で吉野神宮駅下車すると、ちょうどスマイルバスがやってきて乗客はわたしひとりながら(Dコース200円)、金峯山寺や吉野山の町を通って上千本竹林院前で下車。10時半到着。
宮滝へ下りるところがよくわからず(あとで資料で調べると水分神社方向へ登っていくと下り口があると思われる)、以前車で通って見かけていた、如意輪寺の駐車場あたりまで下りて宮滝へいく表示を見つけて歩き始めました。
(追記、池内力さんから「下り口は吉野水分神社の手前、雲井桜の所にあります。」とのアドバイスをいただきました。)
下りのはずが道は登る一方で道を間違えたのではと思い始めたところで、稚児松地蔵にたどり着きました。
これで安心、あとはほぼ下りで喜佐谷を歩きました。鳥の声や水の音が聞こえます。ときどき水でしるいところがあり気をつけて歩きました。
平日ゆえか誰にも出会いませんでした。ひたすら滑らないように足下に気をつけて「象の小川」の表示や高滝に着いて昼食休憩。
しばらく歩くと宮滝方向からの入り口にたどり着きました。上野誠先生の書と解説の歌碑がありました。
「皆人の恋ふるみよしの今日見ればうへも恋ひけり山川清み」(巻7・1131)
そのあとしばらく歩いて桜木神社へお参り。ここにも上野誠先生の書による碑ありました。大海人皇子(後の天武天皇)を表して、「虎に翼を着けて放てり」
やがて宮滝に着きました。
上千本から歩き始めて3時間かけて宮滝につきました。資料館などは休みの様子でしたのでバス停で待っているとうまい具合に川上村からのやまぶきバス(200円)に拾ってもらって上市駅へたどり着きました。
犬養孝先生監修「万葉の道、奈良編巻の3」と「スマイルバスで行くディープな吉野の旅」のおかげで無事、吉野・喜佐谷を下り宮滝へのコースを歩くことが出来ました。犬養先生、万葉の道とおすすめの通り、7キロほどの良いウォークとなりました。
「スマイルバスで行くディープな吉野の旅」、という本を吉野スタイルに注文したら早速届きました。内容がかなり深いようです。A4版、72ページ、1,200円。
よく読んでぼちぼちと吉野に行きたいと思います。
吉野スタイルの磯崎さんのメッセージです。
「今日から「スマイルバスで行くディープな吉野の旅」本の発売を開始します。
今までこのツアーにご協力・ご協賛戴いた所に置いて戴いています。
吉野山で扱っている所は、金峯山寺・中井春風堂・林豆腐店・太鼓判さんです。上市ではゲストハウス三奇楼・浜田畳店・四季の味なかたにさんです。
貯木周辺では、吉野中央木材・丸商店・阪口製材所・喜多製材所・坪岡林業・美吉野醸造です。
その他の場所では、ローソン吉野リバーサイド店(津風呂湖観光)・梅谷醸造元・福西和紙本舗さんです。
公的な所では吉野町役場・吉野町商工会にも置いて頂いています。
吉野以外では、大和郡山市にある書店「とほん」さんにお願いしています。
販売価格は1200円(税込み)です。
ただ遠方の方には、メッセンジャーにお名前・住所・連絡先(電話)を記載いただければ、郵送させていただくことも可能です。
50通りの吉野の楽しみ方を凝縮しています。
ディープな吉野に興味のある方は、是非一度手に取ってみてください。」
コロナ禍のなか、疫病について、万葉集の時代を振り返って、奈良大学教授で万葉学者の上野誠先生のインタビュー記事 ああ言えばこう聞くが、読売新聞5月26日の夕刊に半ページをつかって大きく載っていました。
天平と令和 重なる思い
今こそ読みたい「万葉集」
〇令和と名づけられたのは今となれば時代の必然であった。
〇万葉集の鬼病
・壱岐島に至りて、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の忽ちに鬼病に遭ひて死去りし(巻15)
・世の中は常かくのみと別れぬる君にやもとな我が恋ひ行かむ
※雪連宅万、遣新羅使の一員。鬼病はおそらく天然痘。
〇コロナ禍では人の命と同時に、暮らしをいかに守るかが問われていますがその構造は1300年前と変わっていないようです
〇離別の歌
・君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ
・うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば 大伴家持 753年
〇言葉
・新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け𠮷事
雪が降り積もるように、万葉集に歌を寄せたすべての人によいことが永く積み重なるようにとの祝福歌です。
万葉とは万の言の葉であり、万世、永遠でもあるのです。
言祝ぎで大切なのは日本語の美しさです。ガミガミいがみ合うような日本語では、いい世の中になりません。
・磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ
という柿本人麻呂歌集歌にあるように、言葉の魂に国が助けられるには、いい言葉を使わねば。法律も言葉、人を生かすも殺すも言葉なのですから。
画像をクリックすると拡大します。
奈良公園の浮見堂の南にこの5月24日に、開園が待たれていた瑜伽山(ゆうがやま)園地が開園とのことです。開園時間は9時から22時(入園は21時30分まで)。入園料は無料(茶室は有料)。問い合わせはTEL0742-22-5911とのことです。
県のHPより。
「瑜伽山(ゆうがやま)園地」(旧山口氏南都別邸(なんとべってい)庭園)
奈良公園の南端、浮見堂と鷺池の南側にある園地を「瑜伽山園地」として一般公開します。園地には、名勝奈良公園の指定を受けた絶景のなか、明治から大正にかけて当該地の所有者「山口財閥」が作庭した庭園があります。
志賀直哉など、日本を代表する文化人も訪れた庭園をゆっくりとお楽しみください。
待たれていた保山耕一さんからのメッセージです。
(申し込み受付開始)
「桜咲く」DVD、Blu-ray、29分
参加アーティストから、それぞれ1曲を提供頂き、保山耕一が今年撮影した桜の映像を音と響かせた珠玉のコラボ作品です。
コロナ自粛の影響で活動の場や収入を絶たれたアーティストがこれからも音楽を続けていくために、僅かながらの支援を目的に販売します。
「奈良、時の雫」上映会で、たくさんの観客を楽しませて頂いた奈良とご縁のあるアーティストの皆様に、何か出来ることはないかと思い、この企画がスタートしました。
活動の支援が一番の目的ですが、自画自賛で恐縮ではありますが作品の質は素晴らしいです。
4k撮影の高画質を生かすためにBlu-rayでも販売します。
少しでも支援を厚くするためにジャケットなどは簡素にしています。
DVD、Blu-ray、共に2500円となります。
どうかよろしくお願い致します。
皆様からの申し込みをお待ちしております。
申し込み特設サイト
https://event.nara.jp/sp/hozan/sakurasaku
保山耕一
奈良はイベントや催しが多いのでブログには困らないと思っていたのですが、最近は中止が多くて困った状況です。コロナが早く収束して多くの人に奈良への旅を楽しんでいただきたいと思います。
さて「奈良の人が奈良に泊らない」とよく言われますし、統計でも出ています。そんな中、昨年学生時代の友人たちが「奈良で合宿しよう」と奈良に来てくれました。わたしも旅人としてならまちの旅館「松前」にいっしょに泊りました。
その時のことを短歌にして、ロータリークラブの全国版の冊子に初めて投稿したところ、なんと入選しました。選者は佐佐木幸綱先生です。NHKの万葉集講座でも拝見しましたし、朝日歌壇選者、NHKでも朝日カルチャーでも著名な先生ということです。面はゆいことですが紹介します。
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「ロータリーの友」4月号より。
ロータリー歌壇 佐佐木幸綱先生選
旧き友とひさびさの奈良の合宿をわれも楽しむ旅人として
(評)昔からの長いつきあいの仲間と、年に一度くらい、日本各地で、何泊かの合宿をつづけておられるのだろうと思います。地元・奈良での合宿だけれど、皆に合わせて、旅行気分を味わっている、というのです。日本文学史で「旅人」は独特のイメージとニュアンスを持ってきました。西行、芭蕉、若山牧水、種田山頭火・・・。この作者も、そんな文学史の一端に連なる思いなのでしょう。
米軍キャンプ跡地であったことを証言する石碑です。
案内板には
本校の敷地は、戦前、奈良38連隊の練兵場として利用されていた。
昭和20(1945)年アメリカ軍が奈良へ進駐すると、高畑町界隈とともにこの地も米軍のキャンプ地となった。
右碑文には
「REGIONAL POST ENGINEER,CAMP NARA,HEAVY EQUPMENT,ROADS & GROUNDS SHOP
(奈良 工兵隊支部 土木重機場)」と記されており、この地に米軍工兵隊が駐屯していたことがわかる。その後、米軍病院としても利用されたが昭和30年代に入ると米軍は順次撤収し、昭和33(1958)年、本校が大学構内からこの地に移転した。
また、各種発掘調査では、旧日本軍の建造物、塹壕、模擬手榴弾とともに、米軍建造物(コンクリート土台壁、配管等)が多数出土している。
と書かれています。
現在の奈良女子大学附属中等教育学校の校庭に残されています。貴重な石碑です。
今では戦後、奈良市内に米軍の進駐軍がいたことを残す面影はあまりありません。
元積水の工場や元ドリームランドもそうでした。
5月15日から奈良県では自粛要請が一部解除になりました。
「奈良県では、国による「緊急事態宣言地域」の解除を受け、「新型コロナウィルス感染症対策本部会議」が開催され、「出口戦略検討会議」の意見を踏まえて、新たな対処方針が発表されました。 http://www.pref.nara.jp/55364.htm
「フェーズ2」の段階にあるという判断から、休業要請等の「緩和」を行うと共に、今後の
「感染拡大防止」に努めながら、「社会経済活動の自粛緩和」を共に行う体制 ヘ移行をすすめる
ということのようです。」
すこし開店する店が増えたり、近くのパチンコ店も再開しましたが、歩く人はあまり多くはありません。皆さん5月末までの自粛と思っておられましたので、不要不急の外出は控えておられるのだと思います。
その間、テイクアウトサービスのお店は続けておられますので、こちらも楽しみながらテイクアウトをしています。
おすすめの、ならまちの公納堂(くのどう)町の「春」のハンバーク弁当。税込800円。
いただいた椿井(つばい)町の二鶴(にかく)のうな重。うなぎの老舗です。
東向商店街の上海楼。酢豚とエビチリセット。800円(税込み)
奈良女子大附属の卒業生の皆さんへのご案内です。
ことしは奈良女子大学附属中等教育学校の110周年です。学校名は奈良女子高等師範学校附属高等女学校に始まり、戦後1947年新制の中学校高校になり、中学1年に男子も入学しました。1951年奈良女子大学文学部附属中学校・高等学校になりました。その後現在の名前の奈良女子大学附属中等教育学校に名前が変わってきています。
場所も、創立時から1958年6月に奈良女子大学の一画から、奈良の連隊あとにできた進駐軍のあとの現在地の移りました。そして現在新しい校舎になっています。
そして2010年に創立100周年を迎え、ことし2020年に110周年を迎えました。
そこで、昭和23年(1948年)卒業の方から昨年卒業された方までの思い出を集めた116ページ及ぶ記念誌をこの5月3日に発刊できました。準備から発刊まで2年余りの年月がかかりました。
そして先生、卒業生120名近くの皆さんの投稿をいただきました。
中でも昭和40年(1965年)卒業の方から平成31年(2019年)卒業の方まで欠けることなく50数年にわたって思い出を寄せてくださいました。とてもうれしく思っています。
ついでながら、わたしは1961年から1967年までの6年間、中学高校時代を過ごしました。水泳部で泳ぎ続け、生徒会や学園祭がとくに思い出深いものがあります。
今回も編集におもに携わってくださった吉田隆・副校長先生は
「『思い出』が語る110年史」が完成しました。昭和23年卒業以降の方々にご執筆いただきました。
昭和40年〜平成31年までは、すべての学年の方に原稿をお寄せいただくことができました。ご執筆いただきました関係者の皆様に感謝申し上げます。
それぞれの年代で、教育の内容は少しずつ違ってはいたでしょうが、一貫して母校への熱い思いは変わらずに受け継がれていると思いました。通学路の思い出や自己形成の振り返り、各行事への思い出、自由を大切にすることの重さなど、改めて本校の来し方行く末を考える機会となりました。
卒業生の方には、ぜひ手に取ってお読みいただきたいと思います。ご購入を希望される場合は、下記口座へ1冊1,000円(郵送費込)の振り込みをお願いします。卒業生の方は卒業年を書き添えてください。振込が確認できた翌月発送となります。
口座 南都銀行 本店営業部 普通預金No.0238660
名義 奈良女子大附高同窓会
すぐに手に入れたいという方は、学校にて販売しております。
よろしくお願いします。」
と語っておられます。
多くの皆さんに購入いただき読んでいただくことをお願いします。
2017年4月に亡くなった詩人・評論家の大岡信(1931~2017)氏が長書きつづられたコラム「折々のうた」がかつて朝日新聞の朝刊に載っていました。岩波新書に何冊にもわたって発行されています。
その中で、俳句、短歌、詩と歌謡の全五巻が大岡信『折々のうた』選として発行されました。
短歌は水原紫苑さんが編者で2冊にまとめられて発行されました。
短歌(一)の表紙です。クリックすると拡大します。
そして短歌(二)です。
水原紫苑さんは第一巻の解説に
「日本の文藝を代表するアンソロジーである、大岡信『折々の歌』の短歌選の二巻を編むという重責をいただいた。そこで古今和歌集と紀貫之の再発見者とも言える著者への敬意を表すために、古今集に倣って、四季の歌、恋の歌、そして雑歌、哀傷歌などに代わる人生の歌という三つの部立を採用した」と書かれています。
千三百年、和歌、短歌は三十一文字で変わらぬ定型です。折々に読んでいきたいと思います。
最近、知人から「王龍禅寺は藤の頃が良い、良いお寺ですね」とのお話を聞いて富雄の方へ行ってきました。
まず長弓寺へ。小谷稔先生のお墓参りへ。いつもどなたかが美しい花をお供えいただいています。
そして飛鳥カントリークラブを抜けて、王龍禅寺へ。2月に保山さんの上映会で王龍禅寺を取り上げられました。あれから早くも3ヶ月。コロナ禍のもと上映会は中止が続いています。
本堂へ
本堂から先へ行くと藤棚がありました。きれいに咲いていました。
王龍禅寺のHPです→http://oryuji.com/
保山耕一さんのYOUTUBEの王龍禅寺です→https://www.youtube.com/watch?v=korQXf4HPKM&pbjreload=10
王龍禅寺のあと、『ならら』5月号で特集されていた霊山寺へ行きましたが、あいにく拝観停止でした。
先日の読売新聞に上野先生の「母を看取った体験記」で感慨、というインタビューが載っていました。
時代は変わって、葬儀やお墓も変わりつつありますが、弔い方「生者の幸せ」前提であると言われています。
最初に毛原廃寺と言う言葉に出会ったのは、奈良まほろばソムリエ試験であり、4択の問題でわかりませんでした。その後、『奈良百寺巡礼』でも紹介されていたり、奈良大学博物館で学生たちの研究発表の展覧会でも拝見しました。以前からいつか行きたいと思っていたのですが、ようやく行くことが出来ました。
カーナビを頼りに、名阪国道の神野口で降りて南の方へ道なりに走り毛原の村に着きました。廃寺ですから見つけられるかどうかわからなかったのですが、道路脇に表示がありました。
車を駐めて、もう一度『奈良百寺巡礼』の藤井哲子さんの書かれたページを読みました。歩いて散策するときちんと表示があり初めてでもわかるようにされていました。
確かに大きな礎石が並んでいます。金堂跡、中門跡、南門跡。
そして、「山辺の御井」伝承の井戸がありました。
山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢の処女ども 相見つるかも(万葉集、巻1-81)
のどかな風景です。しばらく散策しました。村の人がきちんと守られていると奈良大学の研究発表でも書かれていました。
帰り道、神野山をめぐりましたが、折からコロナ拡大防止のため、めえめえ牧場など閉まっていました。また神野寺は今回も見つけられませんでしたが、あたりはお茶の産地でもあり茶畑がきれいに広がっていました。
奈良新聞でいつも楽しみにしている川嶌一穂さんの5月の美ビット見て歩きは、森鴎外の書いた『澀江抽斎』についてです。江戸末期の津軽藩医官の日々を伝記にしたとのことです。
私もちょうどコロナ休業のときに森鴎外の奈良での五十首という短歌についての本を読んだばかりでした。今月は森鴎外が取り上げられています。森鴎外は多才で医師であり小説家であり晩年、帝室博物館総長をつとめ奈良にも毎年正倉院の曝涼のときに滞在しています。かつて島根県津和野町の地味な森 林太郎の墓を訪れたことを思い出します。
美ビット見て歩き 私の美術ノート *83 川嶌一穂
森鷗外著「澀江抽斎」
写真 妻・志げ宛大正11年(1922)5月5日付森鷗外手紙(「鷗外の遺産1」幻戯書房刊より)
以前「無人島に持って行く一枚の絵」の話をしたことがあるが、きょうは「無人島に持って行く一冊の本」のお話。私にとっての一冊は森鷗外(文久二年<1862>〜大正十一年<1922>)の晩年の作品「澀江抽斎」だ。
抽斎澀江道純(文化二年<1805>〜安政五年<1858>)は津軽藩の医官で、考証学者。鷗外は江戸時代の武鑑(大名や幕府役人の氏名、家紋、石高などを記した年鑑)を収集する過程で、古書店に出る武鑑の蔵書印からその名を知り、興味を持った。
江戸末期に日々を生きる一人の医官の伝記を書くに当たって、鷗外はその家族から交友関係までを詳しく描写し、同時に大正という時代にそれを調べて行く様子を並行して記す。たとえば、抽斎の子・保(たもつ)さんの存在が分かったが、次女の杏奴が病気になったのでなかなか会いに行けないでいると、保さんが鷗外を職場に訪ねてくれた…などとあって、読者は「ああよかった。それで?」と次を読みたくなる。
抽斎は伝記「澀江抽斎」の中ほどで、その年江戸市中で2万8千人の犠牲者を出した虎列拉(コレラ)のために五十四年の生涯を閉じてしまうのだが、残された家族の物語は淡々と続き、大正五年の記述で、執筆する鷗外の「今」に物語が合流する。読後、日本古来の学問とそれを担った人々が否応なく流されていった時代の怒涛の響きがいつまでも耳に残る。
このご時世で、古い「鷗外選集」を本棚から引っ張り出して何度目かの再読をしたのだが、今回新しい発見があった。鷗外は「その九」で、保さんから資料を受け取ったことを記し、続けて「ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである」と言う。
となると作品「澀江抽斎」は、子の保さんから聞いた話なのか、それとも鷗外の創作なのか、ずっと気になっていた。それが何と、鷗外の蔵書を「鷗外文庫」として所蔵する東京大学附属図書館がインターネット上で公開しているデータベースに、保さんから受け取った資料の写しが含まれていることが分かった。これでインターネットにアクセスできる環境があれば、鷗外が保さんから受け取った資料と「澀江抽斎」とを読み比べて、創作の跡を辿ることができる。家にいる楽しみが一つ増えた。
鷗外は、大正六年に帝室博物館総長に任ぜられ、毎年秋に正倉院曝涼のため奈良に出張した。そのとき滞在した官舎はもう無いが、門だけが今も奈良国立博物館敷地の北東の隅に「鷗外門」として保存されている。
写真は、鷗外が家に送った手紙に添えた蓮華の押し花と、その包み紙に書かれた「アンヌにとらせたい正倉院の中のゲンゲ」の文字。鷗外の次女・杏奴は当時13歳。今は正倉院も美しく整備され、塀で囲まれているが、敗戦後すぐは高床の下でホームレスが雨露をしのいでいたという。蓮華の花は、大正末年のちょうど今頃、正倉院のどの辺に咲いていたのだろう。
この手紙のわずか2か月後に、鷗外は「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という有名な遺言を述べ、一切の治療を拒否して逝った。
=次回は6月12日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。
メモ
「東京大学附属図書館」の「鷗外文庫書入本画像データベース」中、保さんの書いた「抽斎歿後」(157ページ)では、「夫婦で外出した時、途中で激しき雷鳴に出遇つた。母の話に、直ぐ頭の上で、天が二つに裂けた(と?)見えて。其の刹那に、天上から地上に向つて、一直線に、火柱がたつたやうな感がした。間もなく、耳を貫く如く音がして、大地が震動し、夫婦共に覚えず地上へ倒れた。…」とある。
鷗外「澀江抽斎」(その六十四)には、「五百(いお・抽斎の妻の名)と道を行く時の事であつた。陰つた日の空が二人の頭上に於て裂け、そこから一道の火が地上に降つたと思ふと、忽ち耳を貫く音がして、二人は地に僵(たふ)れた…」とある。素材と作品との微妙な関係が非常に興味深い。
しばらく前に買ってあった、鴎外『奈良五十首を読む』を読みました。中公文庫、1000円+税。
裏表紙にはこのように書かれています。
大正5年、陸軍軍医総監の職を退いた鴎外は、一年半後、帝室博物館総長に任ぜられ、度々奈良に滞在する。在任中の歌で編まれた「奈良五十首」は、『明星』大正11年1月号に一挙連載されたもので、茂吉は「思想的叙情詩」と題し、石川淳はそこに鴎外晩年の「物理的精神的な軌跡」を見ようとした。総体としての五十首に込められた本当の含意とは。
大正7年(1918)から大正10年(1921)まで毎年正倉院の曝涼のとき鴎外は奈良にきていました。11月頃の1ヶ月ほど、今の奈良国立博物館の北東にある官舎に泊まり(鴎外の門として今も残っています)。前任まではもっと良い旅館やホテルなどに滞在したそうです。森鴎外は晴れの日は曝涼に立ち会い、雨の日には奈良の社寺などをあちこち回わり研究しています。そのときに作られた短歌五十首です。鴎外も多才で小説など多方面に多くの作品を残していますが、短歌も残しています。
また家族などに多くの手紙葉書を残しています。
この著書で、著者は鴎外の短歌を推察も交えて解説をしています。短歌だけ読むとわかりにくい短歌もありますが、鴎外の秘められた考察はなかなか鋭いものがあるようです。
東京から奈良への旅にて4は詠んでいるとのことです。
(4)木津過ぎて網棚の物おろしつつ窓より覗く奈良のともし火
(5)奈良山の常磐木はよし秋の風木の間木の間を縫ひて吹くなり
(6)奈良人は秋の寂しさ見せじとや社も寺も丹塗にはせし
(7)蔦かづら絡む築泥の崩口の土もかわきていそぎよき奈良
(8)猿の来し官舎の裏の大杉は折れて迹なし常なき世なり
昨年の正倉院展(東京)で掲示されていた有名な歌
(10)夢の国燃ゆべきものの燃えぬ国木の校倉のとはに立つ国
(11)戸あくれば朝日さすなり一とせを素絹の下に寝つる器に
(12)唐櫃の蓋とれば立つあしぎぬの塵もなかなかなつかしきかな
など正倉院の曝涼に立ち会った歌があります。
また奈良のあちこちの寺で詠んだ短歌があります。
東大寺 (25)盧舎那仏仰ぎて見ればあまたたび継がれし首の安げなるかな
興福寺慈恩会 (31)なかなかにをかしかりけり闇のうちに散華の花の色の見えぬも
元興寺址 (34)落つる日に尾花匂へりさすらへる貴人たちの光のごとく
十輪院 (35)なつかしき十輪院は青き鳥子等のたづぬる老人の庭
般若寺 (36)般若寺は端ぢかき寺仇の手をのがれわびけむ皇子しおもほゆ
新薬師寺 (37)殊勝なり喇叭の音に寝起きする新薬師寺の古き仏等
大安寺 (38)大安寺今めく堂を見に来しは餓鬼のしりへにぬかづく恋か
白毫寺 (39)白毫の寺かがやかししれびとの買ひていにける塔の礎
などの歌がある。
森鴎外は文久2年1月19日(1862年2月17日 ) - 1922年(大正11年)7月9日。
森鴎外が奈良を訪れたのは晩年のことでした。津和野でお墓(森 林太郎の墓)を訪れたことを思い出します。
5月5日、日経新聞の朝刊で、金魚の折り紙を「折って送って千尾の金魚」という記事が載っていましたので紹介します。
新型コロナウイルス感染防止のため、家にいる時間が長くなっている子どもたちに楽しんでもらおうと、全国有数の金魚の産地・奈良県大和郡山市が金魚の折り紙を募集している。集まった作品は一つ一つ針と糸でつなげ、千羽鶴ならぬ「千尾金魚」にしてコロナ禍の早期終息を願う。
市は、ホームページや動画投稿サイト「ユーチューブ」で折り方を公開。毎年8月に金魚すくいの全国大会を開く市は「金魚をすくうのではなく、金魚で世界を救いましょう」と呼び掛けている。折り紙の色や大きさに制限はない。広告チラシでもよく、動画に従って作れば約5分で完成する。
金魚は市役所の地域振興課へ郵送してもらう。市役所や市観光協会への持ち込みも受け付ける。7月末までに作品を提出した参加者の中から抽選で50人に、金魚すくいの大会オリジナルタオルを贈る。
上田清市長は「全国には金魚好きの人たちがたくさんいる。金魚の折り紙で気持ちを一つに合わせましょう」と話した。問い合わせは市役所地域振興課、電話0743・53・1151。〔共同〕
以下のHPで作り方を紹介されています。
https://www.youtube.com/watch?v=6Trs9Ap9b9w
あるいは
→https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kankou/event/kchamp/005950.html
良い天気ながら、外出自粛の日々です。資料用の写真も必要でしたので、バイクで走ってみました。
バイクは車より狭い道を走れますし、止めるところにも苦労しません。行き止まりでも簡単に戻れます。
店の配達用の110ccのバイクです。実に久しぶりのことです。
ことしは自動二輪(大きさに制限なし)の免許をとって知らないうちに50年目です。
バイクは風の音、周りの景色などが感じられます。しかも絶好の快適な季節です。新緑を身近に感じます。
平城宮跡、朱雀門へ
万葉集 あをによし奈良の大路は行き良けどこの山道は行き悪しかりけり(巻15-3728)
歌姫町、添御縣坐神社 藤がきれいに咲いていました。
万葉集 佐保過ぎて奈良の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ 長屋王 (巻3-300)
境内に歌碑があります。
元明天皇陵
もと奈良少年刑務所
多聞城あと(現在、若草中学校)
多聞城跡からの東大寺大仏殿、左は若草山、右は御蓋山(みかさやま)うしろに春日奥山の風景。
奈良大学教授の上野誠先生の『万葉学者、墓をしまい、母を送る』は先日、当ブログでも紹介しました。→鹿鳴人のつぶやき
奈良新聞の4月30日に、奈良まほろばソムリエの会の専務理事の鉄田憲男氏がコラム「明風清音」に書かれていますので紹介します。
「上野家の家族史であり民俗史であり私小説とも読める本だ。ご一読をお薦めしたい」と結ばれています。
わたしもぜひお薦めしたいと思います。今、小西通りの啓林堂書店ではよく売れているということです。
(以下の記事はクリックすると拡大します)
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