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2019年7月14日 (日)

美ビット見て歩き*75 

毎月楽しみにしている川嶌一穂さんの「美ビット見て歩き」は、先日お亡くなりになった田辺聖子さんのことです。田辺聖子さんお本は知り合いが好きでカモカのおっちゃんシリーズの何冊かは読んだことはあります。司馬遼太郎さんの記念館も田辺聖子さんの記念館も、東大阪市にあるのですね。ぜひ行ってみたいと思います。

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *75 川嶌一穂

 

大阪樟蔭女子大学図書館内「田辺聖子文学館」

 

写真 「田辺聖子文学館」壁一面の著作(著者撮影)

 

先月6日に田辺聖子さんが91歳で亡くなった。近いからいつでも行けると思って、結局一度も行っていなかった「田辺聖子文学館」に、翌週、急かれるようにお邪魔した。河内小阪駅から歩いて、田辺さんの母校、大阪樟蔭女子大学(旧樟蔭女子専門学校)に向かう。構内の、図書館の一画に文学館があった。
入口近くに、女専時代の創作「雑誌」が何種類かおいてある。手書きの発行部数一部の雑誌で、何とも乙女チックな表紙絵も田辺さんが描いている。もうこの頃から多くの読者を抱えていたのだろう。
わたしのものの感じ方のかなりの部分は田辺作品の影響を受けているかもしれない。それくらい若い時は田辺さんの本を読んだ。
まず読み始めたのは「カモカのおっちゃん」シリーズである。ここまで明け透けに書いていいのだろうかと思うような、男と女の関係にまつわる話が多いのだが、不思議とイヤラシクない。上に2文字が付くほど真面目で未熟だったわたしも、「自分をわらって見たら?」と教わったように思う。
次に夢中になったのが、田辺さんの古典ものだ。何とも博識。大変な勉強量なのだろうが、水面を優雅に滑る白鳥さながら、田辺さんの文章は軽やかに、古典の面白さを伝えてくれる。
たとえば、「田辺聖子の小倉百人一首」(角川文庫)中の「殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)の歌」の解説で、田辺さんはこう言う。
…天皇の生母などに与えられる称号「何々門院」は、宮城の門の名から採られた。飛鳥京の門には、その門を守った古代氏族の名がつけられ、都が平城京、平安京に移ってからも踏襲された。その門号を唐風に改称する際に、伊福部(いふくべ)門は殷富門に、健部(たけるべ)門は待賢門に、壬生門は美福門に、など古名の音を残すように工夫された。…
小さなことだが、この宮城の門号の改称の仕方は、大陸文化の周辺に位置する日本の文化の成立ちを象徴する一例である。田辺さんの指摘は本質を突いている。
亡くなったわたしの母は田辺さんの2歳年上で、敗戦の年が20歳。まさに茨木のり子の詩の一節、「わたしが一番きれいだったとき/わたしの国は戦争で負けた」の世代だ。
口げんかをして、わたしが母を言い負かしそうになったとき、母は何の脈絡もなく、いきなり「あんたなんか、道端にゴロゴロ死体が転がってるの、見たこともないやろ」と言って、黙ってしまった。完敗!ああ、この世代は戦後何十年も、何という大きな傷を胸の中に抱えて生きているのかと、何とも言えない気持ちになった。
田辺さんも、同じだったのではないだろうか。「田辺写真館が見た“昭和”」(文春文庫)などを読むとよく分かる。
文学館の壁一面に並ぶ著作を見ると、まだまだ知らない作品がたくさんあった。書きも書いたり。最盛期には、溢れ出る文章を書くスピードの方が早くて、原稿用紙をめくるのが追っつかないほどだったという。
ぜひ若い人に読み継いでいって欲しい。

 

=次回は8月9日付(第2金曜日掲載)=
・ ・・・・・・・・・・・・・・・
かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

メモ
 田辺聖子文学館 東大阪市菱屋西4丁目2番26号、大阪樟蔭女子大学図書館内。電話06(6723)8182。近鉄奈良線河内小阪駅より西へ徒歩5分。

 

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