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2019年5月11日 (土)

美ビット見て歩き *73

毎月楽しみにしている、川嶌一穂さんの美ビット見て歩きは「万葉集」と新元号「令和」です。
1200年以上前の和歌が今に通じる”新しさ”と書かれています。

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *73 川嶌一穂

「万葉集」と新元号「令和」

写真 福岡県太宰府市・大宰府都督府古跡(偕成社・猪股靜彌文・川本武司写真「万葉風土記(3)西日本編」より)

 

「万葉集」は1200年以上も前に編まれた歌集で、そのほとんどが「五七五七七」という音の区切りを持つ和歌だ。ということは、遅くとも8世紀には日本語の五音七音の感覚が成立していた。つまり語彙と文法構造がすでに確立していたということだろう。
 しかし日本語には文字がなかった。そこに大陸から半島を経由して、たとえば仏教や律令制度とともに漢字が入ってきたとして、私たちの先祖は、それをどのように受け入れていったのだろう。現代のコンピュータやAIなどとは比較にならない、根源的な知の変革だったはずだ。
 大雑把に言って、そのとき日本人は公文書に中国語を採用した。一方で固有名詞などの日本語は、漢字が表す意味とは全く関係なく、音だけを借りて表記した。いわゆる万葉仮名である。
 つまり日本人は、中国語を採用することで、大陸の知とテクノロジーに直接アクセスできるようになった。と同時に、日本語を表記する文字を手に入れた。
もしも中国語だけを採用していたら、言葉としての日本語はおろか、独自の文化文物を保つことはできなかった。もし後者に特化していたら、日本の知の蓄積は数百年単位で遅れただろう。どちらの場合も、日本の独立はなかった。
 8世紀初頭の「古事記」序文に、「すべて中国語で述べると、心を表現しきることはできないし、全音を万葉仮名で表すと、文が長くなりすぎる」とある。今も「春」を大和言葉で「はる」とも、中国語的に「シュン」とも読むように、漢字の習得に時間はかかるが、先人たちのあっと驚く工夫にただ脱帽だ。
 若い頃は不便だとは思っても、とくに愛着のなかった元号だが、この歳になると、身に添ったいい時間軸だと感じる。新元号「令和」は、はじめて日本の古典から採られたとして話題になっている。しかし典拠となった「初春令月気淑風和…」は、万葉集第五巻「梅花の歌三十二首併(あわ)せて序」の「序」の部分から採られた。大和言葉で詠われた歌の部分ではない。漢文で書かれた序文だから、中国の詩文、たとえば習字でお馴染みの「蘭亭集序」などを手本にしている。
しかし最初の「大化」(645年)から、わが国の年号をずっと中国の古典に求めていたことが、今となっては不思議な気がする。
 この梅見の宴の主催者である大伴旅人は、妻とともに平城京・佐保の自宅に梅の木を植えてから、64歳という高齢で任地・大宰府に旅立った。西日本の防衛の拠点である。冬の長旅が堪えたのだろう、着任後まもなく妻が病死する。宴での旅人の歌「我が園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも」には、亡き妻への想いが込められているように感じる。
 任を終えて奈良の家に戻った旅人は次の歌を詠んだ。「吾妹子が植えし梅の樹見る毎に心むせつつ涙し流る」。これは現代人の悲しみそのものではないか。「万葉集」は古いが故に貴重なのではない。今も新しい故に素晴らしいのだ。

 

=次回は6月14日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

 

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