清酒の源、500年後の再興
先日、日経新聞朝刊の文化欄に大きく「清酒の源、500年後の再興
室町時代の酒母「菩提酛」を発祥の地・奈良で 八木威樹 」と載っていました。奈良の酒造りの話です。全文、有料電子版から紹介します。
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清酒の源、500年後の再興
室町時代の酒母「菩提酛」を発祥の地・奈良で 八木威樹
- 2017/12/18付
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正暦寺にルーツ
酒といえば兵庫の灘(なだ)や京都の伏見がまず思い浮かぶだろう。だが盆地を囲む山々から流れる清らかな水に恵まれた奈良も酒造りが古くから盛んだった。「味酒(うまさけ) 三輪の山――」で始まる額田王の和歌は早くも奈良時代に平城京周辺の山で酒が造られていたことを示す。
室町~戦国時代の酒造りについても、わずかながら資料が残っている。例えば、戦国期、興福寺の僧侶が3代にわたって書き記した「多聞院日記」。寺院で造る酒「僧坊酒」の製法を詳細に記録し、高度な酒造りの技術を今に伝える。

菩提酛仕込みのため、毎年1月、正暦寺(奈良市)に地元の酒蔵が集う
僧坊酒の一つ、菩提山正暦寺(ぼだいせんしょうりゃくじ)(奈良市)で造られた「菩提泉(せん)」は現在の清酒のルーツとされる。私たちが復活に取り組んだのがこの酒だ。
室町時代の記録で日本最古の民間酒造技術書ともいえる「御酒之日記」などによると、正暦寺では15世紀初頭から1世紀半ほどにわたり清酒を造っていたという。諸国の荘園から集まる大量の米、広大な敷地、清らかな水、それに高い酒造技術が合わさり、日本初とされる清酒が生まれた。
それまでは濁った酒のどぶろくが一般に飲まれていたが、どぶろくを漉(こ)すという作業技術により清酒(すみざけ)と酒粕(さけかす)に分けることが可能になった。ちなみに、残った酒粕で野菜をつけたのが奈良漬だ。酒母(酛(もと))に蒸し米などを3回に分けて加えることで大量の清酒を造る画期的な技術「三段仕込み」もこの頃すでに確立されていた。
発酵の種として使われる酛は寺の名にちなみ菩提酛と呼ばれた。詳細な記録は残っていないが、江戸~明治時代にも各酒蔵で菩提酛から清酒が造られていたようだ。だが、政府が酒造方法に関する規制を強め、菩提酛は姿を消す。菩提泉も幻の清酒となった。
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まず乳酸菌探し
私は大学で電子工学を学んだ後、日立製作所に入りシステムエンジニアとしてしばらく働いた。1980年代後半、30歳手前の時に、跡を継ぐため、亡父に代わって社長を務めていた叔父に呼び戻された。当時は景気が良く、叔父が売り出した1000円パックの清酒が飛ぶように売れた。だが、ピークを過ぎると、日本酒が焼酎やワインなどに押されたこともあり、出荷量は激減する。
酒蔵の跡継ぎによる「青年醸友会」では、右肩下がりの出荷量に危機感を抱き、奈良の酒を全国にアピールする方法を考えることになった。そこで出たアイデアが菩提酛による清酒を昔の記録通り造ることだった。
96年、「奈良県菩提酛による清酒製造研究会」が発足した。酒蔵15社に正暦寺や大学・研究機関などが参加。まず取り組んだのが、菩提酛を創製するのに必要な天然の乳酸菌を探すことだった。
寺境内で酛造りに適した乳酸菌を発見してこそ菩提酛といえる。奈良県工業技術センターの山中信介さんや松澤一幸さんが主導し、井戸水や草花に含まれる水分など何千ものサンプルを調べたが、なかなか成果は出なかった。2年が経過した98年、仕込みの水を確保するため、山中にある寺の境内で採取した湧き水をたまたま調べてみると、酒造りに適した乳酸菌を含んでいた。
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酒蔵同士で味競う
次はどこで菩提酛を再現するかだ。酒蔵で造ると酛の菌が強いため、蔵特有の菌が失われる恐れがあった。忠実に復元するには正暦寺で造るのが最適だという結論に達した。そして、99年、正暦寺で約500年ぶりに酛造りが復活した。

記念に「日本清酒発祥之地」という石碑を建てた。3年前から奈良市では同様の碑が建つ兵庫県伊丹市などと共同で日本酒の魅力をアピールするイベントも催しており、我々も協力している。
正暦寺の乳酸菌は冷凍保存され、毎年、新年早々に境内で行われる仕込み作業で使われる。研究会に参加する酒蔵は酛を持ち帰り、それぞれ独自の清酒に仕上げて3月下旬の品評会で味を競う。蔵ごとに味は微妙に異なるが、菩提酛を使うとクセは強いが甘くてコクがある日本酒ができる。
室町時代の清酒も恐らく似た味だっただろう。この味を後世に伝えるためにも、年が明けたら、またよい酒を造りたい。
(やぎ・たけき=八木酒造代表)
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