美ビット見て歩き 私の美術ノート *57
いつも楽しみにしている川嶌一穂さんの美ビット見て歩きです。奈良・学園前の大和文華館の展覧会です。終了近し、早速行ってきました。50年ぶりの展覧会ということです。説明の音声ガイドを聞きながら、拝見しました。柳沢淇園は柳里恭と同一人物であることを初めて知りました。
美ビット見て歩き 私の美術ノート *57 川嶌一穂
大和文華館 特別展「柳沢淇園―文雅の士・新奇の画家」
写真 柳沢淇園筆 睡童子図(部分) 個人蔵=大和文華館提供
日本人は昔から大陸の文物に憧れを抱き、江戸時代の文人の多くは、大陸風に一文字の苗字を名乗った。
たとえば山陽道に私塾を開いた江戸後期の漢詩人は本姓の「菅波」から取って、管茶山(かん・さざん)と称したし、画家・池大雅は、彼の通称名「池野」から一字取った名である。
思えば微笑ましくもあるが、柳沢淇園(やなぎさわ・きえん)も本姓の一字をとって柳里恭(りゅう・りきょう)と号した。
柳沢家については第26回「柳澤家伝来の名品展」と第40回「六義園」で取り上げたが、淇園(1703~1758)は、柳沢吉保の筆頭家老の家に生まれ、22歳の時に主家の転封によって大和郡山に移った。
江戸の生活が恋しかったのだろう、その頃から随筆「ひとりね」を書いている。遊里で遊び尽くした体験から得たまさに巻措く能わざる随想だが、彼の絵や文字に一点の緩みも見られないのは少し不思議な気がする。
淇園の絵は生活のために売る必要がない、という意味で真の「文人画」と言うべきだろうが、「文人画」と聞いて想像するような、せいぜい淡彩の水墨画ではない。濃密な色彩を施した大陸趣味の道釈人物画や花鳥画がほとんどだ。
写真は、春まだ浅い頃の書斎を描いたものだろう。虎皮の敷きものは暖かく、机上に活けた春蘭の香りに誘われて、墨を磨ったところで眠ってしまった。目覚めたら稽古を始めようか。それまでしばし幸せな夢を見ることにしよう。まさに文人理想の図である。
本展図録の巻頭論文で、橋爪節也阪大教授が学芸員の中部さんから、淇園展の企画を何度も要請されたと語っている。昨年亡くなった大和文華館学芸部長・中部義隆(なかべ・よしたか)氏は、琳派研究の第一人者・山根有三先生をして「ぼくの後継者」と言わしめた伝説の学芸員である。猥談に紛れて、筋の通らぬ世の中を批判したり、かと思えば客人を難波あたりに案内して「こんなん東京では食われへんやろ」と、若牛蒡の煮浸しを嬉しそうに食べさせたりする根っからの大阪人であった。
五十代半ばで亡くなった氏の人生を貫くものは、作品を見る確かな目と、緻密な論考である。私も拙い論文を読んで頂いたり、「歌って踊れる教授になって下さいね」と激励されたり(?)ずい分お世話になった。外の廊下にまで響く艶やかな声の列品解説がもう聞かれないと思うとほんとうに寂しい。
きっとあちらでも、この絵のように時々居眠りをしながら、研究三昧ライフを楽しんでおられることだろう。遅ればせながら、心よりご冥福をお祈りいたします。
=次回は12月8日付(第2金曜日掲載)=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。
メモ 大和文華館 奈良市学園南1-11-6。電話0742(45)0544。近鉄奈良線・学園前駅から徒歩5分。会期は明後日、11月12日(日)まで。残り少ないのでご注意下さい。
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