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2017年9月 2日 (土)

おすすめです。興福寺旧境内、古地図ウォーキング

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この秋、興福寺旧境内、古地図ウォーキング、という興味深い催しがおこなわれます。

先日、まほろばソムリエの会のガイドをされる皆さんの研修の勉強会があり、わたしはガイドをしませんがご一緒に、前奈良市埋蔵文化財調査センター所長の森下恵介先生のお話を2時間あまり聞くことができました。
すぐ近くの興福寺ですが、知らないことも多くありとても勉強になりました。

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(以下、私のメモより)

興福寺は710年に飛鳥・藤原京から移ってきたとされている。奈良時代、平安、室町時代以降、明治、そして現代に至るまで深い歴史を持っている。

平安時代以降奈良の多くの寺が低迷していく中、興福寺・春日大社は荘園を持ちどんどん力をもつようになったこと。

焼けうちなどにより鎌倉時代に東大寺や興福寺などの復興があったが、興福寺は奈良時代の建物があったから、それが継承されている。

また慶派による数多くの仏像が作られたが、これも奈良時代の仏像があったからこそである。鎌倉時代の仏像というが、鎌倉時代の仏像が一番たくさんあるのは、奈良である。

大和に守護は置かれなかった。

若宮様の出現による「おんまつり」の由来(1136年)。

大和士(やまとさむらい)で有力なのは、筒井氏、古市氏、越智氏、十市氏、箸尾氏、そして柳生氏。

江戸時代の興福寺は「御朱印地二万一千石」

おん祭りや、薪能は江戸時代奈良奉行の元で行われたが、徳川将軍が執行したということ。

上臈、下臈の話。貴種、良家、学侶、コウジンなどの話。

鹿殺しは戦国時代以前の話。

十三鐘の石子詰めの話は落語などの話である。

江戸時代、興福寺の旧子院はいかに広がっていたか。

明治に入って、一山還俗した。(坊さんが神官になった)

明治に入ってなぜ興福寺などのお寺は廃仏毀釈になったか。

そもそも興福寺はお公家さんが来ていたから、神主などになった。内山永久寺、大御輪寺、妙楽寺なども興福寺系であったから。外からではなく、自壊したといえる。

明治以降「奈良華族」と呼ばれ、男爵などの位をもらった。

安く五重塔が売りに出されたという話のいろいろ。

「四条はゴジョウでドベたれた」(県令の四条隆平を揶揄したことば。ゴジョウとは強情?ドベとは土塀であり一番ビリということ)

奈良公園の開設

正岡子規「秋風や囲いもなしに興福寺」

興福寺旧境内は現在よりもっと広い。

平城京の外京(げきょう)の東六坊大路(いまの餅飯殿通り、東向き通りの筋)の東。一乗院あとであった裁判所、県庁、知事公舎、吉城園、氷室神社あたりなど。

猿沢池は古いが、現在の荒池、浮見堂あたりは明治時代にせき止められた池である。そこにはかつて興福寺の子院などがあった。

奈良ホテル、大乗院あとあたり。きめん山。ゆが山。

有名な多門院日記の多門院はいまの飛鳥荘のところ。


興福寺はいわば封建領主であり、奈良のまちはいわば興福寺の用足しの町、興福寺のためのまち、と考えたらわかりやすい。

この秋、奈良市観光協会の主催で、奈良まほろばソムリエの会の皆さんがガイドする「興福寺旧境内、古地図ウォーキング」が行われます。どうぞこの機会にお出かけください。

再建中の興福寺中金堂の現場特別見学や東金堂拝観、阿修羅像などを仮講堂で拝観。古地図イラスト、興福寺の精進ふりかけなどお土産もたくさんついているそうです。

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すでに9月16日は満員御礼とのことです。あと9日分、募集されています。


くわしい説明、申し込みは→興福寺旧境内古地図ウォーキング 

へどうぞ。

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