フォト
無料ブログはココログ

« 美ビット見て歩き 私の美術ノート *54 | トップページ | 『東大寺大仏縁起絵巻』特別公開 »

2017年8月13日 (日)

尾田栄章さんの「行基と長屋王の時代」講演会へ

Dsc_12941 Img8541
 
8月11日、現在、株式会社尾田組会長であり旧建設省の河川局長であった、尾田栄章さんの「行基と長屋王の時代」という本(発行 現代企画室、2400円+税)と同じタイトルの講演会が、奈良県立図書情報館であり参加してきました。参加者は部屋満員で、120人ということでした。余談ながら、受付でわたしの申し込みが一番早かったといわれました。
Img106

最初に、人類がアフリカ中部から、世界各地へ「グレートジャーニー」を行ったことを話されました、それは人間が水を求め、生活できる土地を求める旅であった。
実際、中央アジアの砂漠でも、1キロの放水をできる設備があるところは、緑が生まれ人間は生活できる。水がとにかく大切である。

一方、日本は、「滝」ともいえる急激な川である、それはアルプスの急激な急斜面に匹敵するという研究事例がある。実際、豪雨で山が崩壊し、土砂が流れ込み、川の流れが変わってしまった日本の洪水の写真で説明されました。

そうした話を前提にして、行基集団の土木工事の実例をお話になりました。
大阪の淀川の河川工事であり、狭山池の大工事のことを詳しくお話になられました。それは、あまり改変を加えられていない、明治時代の地形図をもとにしたなるほどと思える実証的なお話でした。

Img105


2時間以上にわたる尾田栄章さんの熱心なお話の中で印象に残るお話をわたしのメモから書いておきます。32ページにのぼるパワーポイントの資料をもらいました。

 

・2002年、千田稔県立図書情報館長と行基について対談したことが行基について調べるひとつのきっかけとなった。

 

またその後、2007年から2014年まで『河川』という専門誌に行基のことを中心に連載したこと。
近鉄奈良駅前広場の行基像は、東大寺大仏殿の方を向いているが、行基さんは実際にはもっとほかの方を見たいのではないか。
・行基像は唐招提寺の像が一番ふさわしいと思う。
・池は掘るのではなく、せき止める池が多い。なぜなら、すぐそばに水があっても、低いところの水は利用できない。かつて足で水車のようなものを踏んで隣に水を上げたように、人力を使わないと水は上げて利用できない。(明治以降、ポンプでようやくくみ上げることができるようになった)
・川の水を上の方で取水し、堀で流し、池にためた。
 
・土で作られた低い堤防でも、水が越えない限り、堤は役割を果たす。(バンコックの堤防の実例)
・1175年の『行基年譜』と741年の『天平十三年記』の検証。『天平十三年記』は信頼できるのに、『年代記』は信頼できないというが、果たしてそうか。
・『天平十三年記』は、橋、堀、池、溝、樋、船息(港のこと)、布施屋などたいへんな数の事業内容を書いている。

・行基集団の工事は竣工した時ではなく、起工した時を記録している。なぜなら、起工したあと、人を集めて工事しているからだ。行基年譜・年代記による寺院(道場)は実に多い。
・「三世一身法」、というのが注目される。三世(三世代)と一身(本人の代のみ)の差は、新しく水を作り出した開墾には三世代にわたり、土地を与えるが、以前からの水を利用した開墾には一代のみ土地を与えるという大きな差があるからだ。
 
・藤原不比等の死去(720年)をはさんで5年間で、「続日本紀」での、行基をおとしめた評価から、一気に行基を高く評価した書き方に変わっている点。

・行基は668年~749年逝去。209文字で書き表されている。行基の80年の人生。

・長屋王、676年or684年~729年自害。わずか15文字しか書き表されていない(天武天皇の孫であり高市皇子の子であるということのみ)

・しかし行基の生まれ活躍した時代、そして長屋王の右大臣などとして活躍した時代の重なること。行基の後ろ盾として長屋王がいたと推測できる。
・平城宮をはさんだ、長屋王の住まい(発掘で現在の大宮通、もとそごう百貨店)と菅原寺(喜光寺)の関係。朝廷はは平城宮にとても近いところに行基の菅原寺を建てさせていることを注目しなければいけない。
・行基集団は、農繁期に起工した工事がないことから、農業に従事した人を集めたり、社会的にドロップアウトした人々などを集めたと考えられる。
・などなど。
わたしの理解では、あまりに多岐にわたりくわしいお話であり、十分にはとても再現はできません。
そもそもこの書物は『河川』という専門誌に長年にわたり投稿された論文の中から、行基の土木工事に注目され、長屋王との関係に注目されて書かれた本ということです。

本だけではわからなかった多くの点を豊富な資料をもとに、2時間を超える尾田さんの熱弁で、すこし、わかったという気もしますが、まだまだむつかしい話といえます。

講演の中で、尾田さんは、「今度は論文ではなく、小説として持論や推理を展開していずれ、行基のことを書きたい」と言っておられましたので、大いに期待したいと思います。

そしてこれから奈良に住まいを定められて、ますますのご活躍をご祈念申し上げます。

最後に、朝日新聞の「ひと」の欄の記事を紹介します。
Img104

« 美ビット見て歩き 私の美術ノート *54 | トップページ | 『東大寺大仏縁起絵巻』特別公開 »

コメント

講演会に御参加いただき、有難うございました。
詳細なご紹介を頂き、これまた感謝・感激です。

『行基鍋』に是非ともご参加いただきたいと思います。
「国際都市・奈良の再生・復興、とりわけ『ならまち』の復興」は如何でしょうか。

車を入れない街づくり、往時を感じさせる街づくり(奈良時代から今まで!何でもありですネ)

よろしく。よろしく。

尾田さま
コメントありがとうございました。
行基鍋の活動たのしみですね。
ぜひ参加させていただきたいと思います。
よろしくお願いします。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 美ビット見て歩き 私の美術ノート *54 | トップページ | 『東大寺大仏縁起絵巻』特別公開 »

2024年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31