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2016年5月14日 (土)

美ビッド見て歩き  *40

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(記事はクリックすると拡大します)

いつも楽しみにしている川嶌一穂さんの美ビット見て歩きが奈良新聞に掲載されました。東京の駒込の六義園です。

東京と奈良はいろいろつながりのあるものだと思います。そういえば昨年でしたか、大和郡山市と東京都文京区などの市長が集まり柳澤吉保にまつわるシンポジウムも開かれました。

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美ビット見て歩き 私の美術ノート *40 川嶌一穂

東京駒込「六義園」

写真 新緑の六義園内「渡月橋」=著者撮影

先月東京に引越して、まず六義園(りくぎえん)を訪れた。徳川五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が、広大な敷地を綱吉から拝領し、7年の歳月をかけて築いた庭園である。
 今年は花が早い。期待していたつつじの花もほとんど散ってしまっていた。その代りに滴るような新緑の美しさを堪能したが、写真をカラーでお見せできないのが残念だ。
昨年2月の本欄で、寧楽美術館で開かれた「柳澤吉保没後300年記念・柳澤家伝来の名品展」をご紹介したが、歌舞伎などで典型的な悪役である吉保が、実は綱吉とともに元禄期の和歌ルネサンスのパトロンだったというのが趣旨だ。
じっさい吉保みずから設計を指揮したこの庭園も、歌枕として名高い紀州和歌浦の景色を再現したものである。中心の広い池は和歌浦の海で、中に浮かぶ玉津島の築山の名は妹山・背山、池を見下ろす小高い山は藤代峠。これらは実際に和歌浦周辺にある地名である。六義園も、吉保は「むくさのその」と読ませた。和歌の形態を六種に分類した「古今集」仮名序に依る名前である。
写真の渡月橋は、後堀川天皇御製「和歌のうら芦辺の田鶴の鳴声に夜わたる月の影ぞさびしき」の歌から名付けられた橋で、庭内を散策する人が二枚の巨石の上を楽しそうに渡る姿が見られる。
当初は藤代峠から東に筑波山、西に富士山が望めたというが、ここもご多分に洩れず今やビルに取り囲まれている。しかし山手線の内側に、江戸期の庭園が関東大震災や東京大空襲の被害をほとんど受けずに今に残るのは本当に貴重だ。
 長い戦乱の世が終わり、政治の中心が江戸に移ったとはいえ、文化はまだ上方にあった。天皇は御所におわし、経済は大坂を中心に回り、大きな寺院も奈良京都にあった。しかし公方様の御膝下がいつまでも文化的田舎であってはならない。学問好きの将軍綱吉はおそらくそう考えただろう。歌学方を創設し、上方から北村季吟を迎える。生母桂昌院とともに仏教を厚く信仰し、護持院隆光に帰依する。隆光の進言もあって綱吉は東大寺大仏殿の再建や法隆寺諸堂の修復に力を尽くした。
 綱吉亡き後、吉保は隠居して六義園で余生を過ごし、その後、長男の吉里が郡山藩主として移封された。金魚と金魚職人を連れていたというが、六義園で働いた職人もいたことだろう。
 護持院隆光は失脚し、今は故郷大和の平城旧跡に隣接する幼稚園の裏手に眠っている。はるか東に、再建に寄与した東大寺の大屋根を望む地である。

 =次回は6月10日付=
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かわしま・かずほ
元大阪芸術大学短期大学部教授。

メモ 特別名勝六義園 東京都文京区本駒込6−16−3。電話03(3941)2222。JR山手線駒込駅、東京メトロ南北線駒込駅下車、正門まで徒歩7分。年末年始休園。

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わたしは、2014年11月、紅葉のころはじめて駒込・六義園を訪れました。新緑の頃はまた良いだろうと想像することです。そのときの鹿鳴人のつぶやきです→

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上記の渡月橋の秋の風景です。

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