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2015年11月 4日 (水)

絹谷幸二さん 日経新聞 11月の私の履歴書に

奈良ゆかりの東大寺長老の森本公誠さん、前京都大総長で現在理研理事長の松本紘(ひろし)さんにつづいて、奈良市元林院町の洋画家 絹谷幸二さんが11月の日経新聞の私の履歴書に登場されています。明秀館はわたしの祖父もよく通っていたと聞きます。いまは、絹谷幸二さんのアトリエの表札がかかっています。

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絹谷幸二(2)奈良の花街 大物の曽祖父から名前 商才たけ子供は全部で40人


2015/11/2 3:30日本経済新聞 朝刊[有料会員限定]  

奈良・興福寺の五重塔の最上階につながるはしご段は、人ひとりがかろうじて通れるほど狭い。いまは立ち入りができないが、子供のころは有料で上ることができた。私は小学校からの行き帰り、顔パスで入り口を素通りし、この階段を駆け上った。回廊からは大和平野が見渡せた。
 菜の花やレンゲが咲く原っぱを、蒸気機関車が煙をたなびかせて走り抜ける。
鏡のようにきらめいているのは、奈良に多いため池だ。
早朝であれば綿雲が平野を覆うように張りつき、南のかなたで香具山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の大和三山がおっぱいのような丸い頭をぽこぽことのぞかせる。  
1943年、私は興福寺の足元にある花街、奈良市元林院町(がんりいんちょう)に生まれた。  
江戸時代は仏画の絵師が住んだことから「絵屋町」と呼ばれていた辺りで、町中を流れる率川(いさがわ)の橋の親柱には今も「絵屋橋」の刻印が残る。
明治以降は芸妓(げいこ)町として栄え、大正から昭和にかけての最盛期には十数軒の置き屋が並んだという。
私の少年時代も路地裏に三味線や太鼓の音が絶えることはなかった。  
猿沢池のほとりに立つ生家「明秀館」は、曽祖父の絹谷幸二が明治半ばに始めた料亭だ。私はこの曽祖父から名前をもらった。
彼は明秀館の裏手に「萬玉楼」という置き屋を一足早く開業しており、こちらが本家にあたる。
正徳2年(1712年)の棟札が見つかった江戸時代半ばの町家を含め3つの母屋があって、現在は私の親戚が「まんぎょく」という名の料理屋を営んでいる。
紙を売る商売で身を立てた曽祖父は商才にたけていた。
置き屋と料亭はいわば趣味のようなもの。
電線会社やゴム工場、製材業など次々と新しい事業で財を成した。
「幸二さんが歩く後にはつむじ風が舞う」と噂された器量よしで、お妾(めかけ)さんたちとの間に40人ほどの子供を持ったとも聞く。  
明治の廃仏毀釈が興福寺に及びそうになった時には、4、5人の仲間を募って五重塔を買い取る腹づもりだったとか。1900年のパリ万博では明治政府に代わり日本から出品する美術品を買い集めたそうで、とにかくスケールの大きな人だった。
そんな話を耳にしていたのだろう、後のフランス文化相アンドレ・マルローが彫刻家のザッキンを引き連れて明秀館に昼食を食べにきたことがある。
 息子である祖父は「ほとけの政次郎」で知られる人格者で、しっかり者の妻アイと家業を守った。
私の実家は伊藤博文や三条実美、奥野誠亮氏ら歴代の政治家、東大寺別当の上司海雲、白樺派の作家や画家らがつどうサロンのような場所だった。
若草山をのぞむ高畑という町に家を建てた小説家の志賀直哉は、料亭も兼ねた萬玉楼に上がり込んでマージャンに興じたそうである。
 政次郎夫妻の土地や財産は長男の政幸、次男の政治が受け継いだ。
政治は民生委員のような無給の仕事を進んで引き受け、置き屋の組合長を務めた情も侠気もある男で、本家を継いだのは彼。
私の父、政幸は明秀館や事業を譲られた。
ところが商売のセンスがなく、農地解放も重なって、あえなく失敗。
 母のヒデが父と別れ、家を出て行くのもそんなことが遠因だったのだろう。
戦争末期、私はようやく物心つき始めたころだった。 (洋画家)

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