日経新聞の記事より
奈良女子大学の誕生のことを先日、日経新聞が取り上げていましたので紹介します。
全国に2校 国立女子大、奈良に(謎解きクルーズ) 10年越しの誘致 京都に粘り勝ち わずか1票差 教育熱実る
奈良女子大学(奈良市)は、お茶の水女子大学(東京・文京)とともに全国で2校しかない国立の女子大だ。
前身の奈良女子高等師範学校(女高師)は1908年(明治41年)に誕生した。大阪や京都でなく、人口の少ない奈良に設けられたのはなぜだろう。
重要文化財に指定されている奈良女子大学の記念館
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重要文化財に指定されている奈良女子大学の記念館
まず、開設時の奈良市の人口を調べてみると、約3万2千人と現在の10分の1以下だ。
大阪市はすでに約122万人の大都市で、京都市が約44万人、神戸市は約37万人に上る。当時の奈良は和歌山市(約7万7千人)や大津市(約4万2千人)よりも少なかった。
国立の高等教育機関は大都市から開設されていった。明治時代、帝国大学は東京、京都、仙台、福岡に誕生し、大正以降に札幌、大阪、名古屋に設けられた。
人口を考えると、東京の女高師(現お茶の水女子大)に次ぐ女高師が奈良にできたのはやはり不思議だ。
学生に比べ教官が多く手厚い教育が行われていたことがうかがえる(1913年)
熱心な誘致活動があったと推測し、文部科学省に問い合わせた。だが「当時の資料は見当たらない」との答え。
そこで「奈良市史」や「奈良女子大百年史」といった文献にあたり、東京美術学校(現東京芸術大学)の分校を奈良に建設する構想があったことが分かった。
提唱者は同学校の校長で日本近代美術の父ともいわれる岡倉天心だ。天心は奈良の古美術の補修、復元に熱心な人物だった。
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誘致を目指した奈良市(当時は奈良町)は1895年ごろ、3千坪(約9千9百平方メートル)の土地を国に寄付した。「狭すぎる」との指摘を受け新たに2万坪(約6万6千平方メートル)を用意したものの、結局、計画は立ち消えとなる。
そこで政府内で浮上していた第2女高師の誘致に目を向けた。
1904年に起こった日露戦争による国の財政難で第2女高師の開設は難航した。
加えて、すでに帝大がある京都市が名乗りをあげ、奈良市は苦境に立たされる。どうやって巻き返したのか。
奈良女子大の今岡春樹学長を訪ねる。「調べてみたらこんなものがあった」と今岡学長が見せてくれたのが、1907年(明治40年)3月27日付官報の写しだ。前日の衆議院の議事録が載っている。
議題の7番目に「第2女子高等師範学校位置に関する建議案」とある。旧字の漢字とカタカナで書かれた官報を読み進めると、国の奈良設置案に対し、一部の議員が京都に変更するよう求めた建議を提出。これをめぐる討論と採決結果が載っていた。
京都支持派は帝大など学校が集積し、学習環境に恵まれている点を主張する。一方、奈良支持派は過去の歴史的な経緯と長年の誘致活動を尊重すべきとの意見だ。奈良市は東京美術学校の分校誘致のため、市債を発行して土地を用意し国に寄付したほど。計画が頓挫し、国が女高師の計画を持ちかけた経緯を踏まえれば、京都案にはこれを覆すほどの理由は見当たらないとしている。
採決は京都支持が131票で反対は132票。京都への変更を求める建議はわずか1票差で否決され、衆議院は奈良案を支持する結論を出した。
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美術学校分校の誘致計画から十数年を経てようやく実現した奈良女高師。官報の議事録によると、奈良市が土地を手当てするために発行した市債は10万円にのぼる。
奈良市史によれば、1907年度の市の歳出は約11万円なので、土地購入に年間予算に匹敵する借金をしていたことになる。現在なら考えにくい大盤振る舞いだ。
奈良市の誘致への思いは、今では想像できないほど熱かったようだ。
奈良と京都の誘致合戦といえば現在のリニア中央新幹線に通じる。中間駅として「奈良市付近」とされている国の計画に、京都市や京都府などが京都市を通すよう異議を唱えている。100年以上前にも奈良と京都の間で激しい誘致合戦が繰り広げられていたのだ。
(奈良支局長 松田隆)
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