美ビット見て歩き 私の美術ノート*22 川嶌 一穂さん
奈良新聞に毎月掲載されて楽しみにしている川嶌一穂さんの「美ビット見て歩き」です。
美ビット見て歩き 私の美術ノート*22 川嶌一穂
畠中光享著『仏像の歩み』春秋社
去年、まさに「目からウロコ」の本に出会ったので、ぜひご紹介したい。奈良県出身の画家、畠中光享(こうきょう)の『仏像の歩み』である。著者みずから撮った多数の写真と共に、第Ⅰ部でインド、第Ⅱ部でアジア各地の仏像について語ったものだが、そのことで日本の仏教の姿が浮き彫りになるという本だ。
まず冒頭の「わが国に仏教が伝わったときはすでに密教色の強い仏教であったという、至極当たり前の事実をいう人はいない」という文に衝撃を受けた。密教と聞けば、誰しも平安時代の最澄や空海を思い浮かべるだろう。しかし、わが国への仏教伝来の最初期の仏像群である法隆寺伝来の金銅仏(東京国立博物館蔵)は、その頭光のほとんどが火炎形である。密教化した頭光の形だ。東大寺法華堂の本尊、不空羂索観音も、多くの腕を持つ、密教化した異形の像だと著者は言う。
釈迦生誕の地、インドで、仏舎利をおさめるために造られた仏塔は、露盤の上に伏鉢があり、その上に相輪が乗る。中国大陸を経由して日本に仏教が伝わったとき、それは地面から遠く、多層の屋根の上に置かれたが、仏塔であることに違いはない。わが国最初の仏教寺院、飛鳥寺の伽藍配置は、塔を中心としたものだったし、法隆寺でも、塔は金堂と並んで伽藍の中心を占めている。しかし東大寺になると、塔は中門より外に配置された。仏舎利が象徴する釈迦の存在の意味が薄れて来たのだ。
これは日本に伝わったのが、変化を許容する大乗仏教であったためだが、戒律を重視する上座部仏教が伝わったスリランカ、ビルマ、タイでは、釈迦像以外の仏像は造られない。著者は、インドだけでも100回以上、仏跡を訪ねる旅を重ねて、釈迦が伝えようとした仏教のあり方を探し求めたのである。
この本を読むと、インドに行きたくなるが、インドはあまりに遠い。せめて涼しくなったら、最古の仏典『スッタニパータ』(岩波文庫)を携えて、日本最古の伽藍配置を今に伝える法隆寺や、日本最古の仏足石が残る薬師寺を訪れたい。そして、東大寺大仏殿の東隣にひっそりとたたずむアショカ王柱の柱頭彫刻の模刻を見て、はるか遠くから長い時を経て伝わった仏教の旅を偲ぶとしよう。
なお著者の畠中光享は、300年ぶりに再建される興福寺、中金堂内の法相柱(ほっそうちゅう)に飾り付ける、法相宗ゆかりの高僧14人の絵を制作中である。4年後の落慶法要が今から待ち遠しい。
=次回は10月10日付=
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かわしま・かずほ
大阪芸術大学短期大学部教授。
メモ 畠中光享著『仏像の歩み』(2013年8月刊)春秋社 電話03(3255)9611 定価2500円+税。
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