水木十五堂のこと
実は最近まで、水木十五堂(本名、水木要太郎)のことはあまりよく知りませんでした。
大和郡山市では数年前から、水木十五堂の功績に思いをいたして水木十五堂賞を選んで表彰されています。
先日、柳汀会(奈良女子高等師範附属女学校、奈良女子大附属中学高校、現在奈良女子大附属中等教育学校の全体の同窓会)があり、同窓の上田清大和郡山市長さんからお話を聞く機会がありました。
水木 要太郎 (十五堂) みずき ようたろう (じゅうごどう)
(十五堂=雅号(がごう))の略歴です。
幕末の元治2(1865)年1月15日、現愛媛県伊予市の生まれ。
松山中学校、東京高等師範学校に学んだ後、明治23(1890)年3月、奈良県尋常師範学校教員心得として奈良県に転住して以来、40数年にわたり大和郡山(豆腐町)に居を構え、奈良県尋常中学校(郡山中学校、現郡山高校)教諭、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)教授、奈良帝室博物館学芸委員を歴任。
大和の歴史や地誌の研究を進める一方、漢詩、和歌、俳句、書画、狂歌から茶道、演劇等を通じ、多くの文人や芸術家と交流し、幅広い分野であらゆる収集を行い、その数7,000点あまり、『水木コレクション』として、今日に受け継がれている。
中近世の古文書、近世の刊本、近世から近代の絵地図、文化人の書状など多岐にわたる膨大な資料群であり、学術的に貴重な資料も多く含まれている。
特に異彩を放つのが、『水木の大福帳』と呼ばれる半紙四分の一大の帳面であり、300冊以上にものぼる大福帳には、多くの学者や文人、芸術家などあらゆる階層の人たちが署名やコメント、似顔絵などを残している。まさに時代の息吹が直接伝わる貴重な資料である。
これら大和の歴史や文化に関する「博識」から、いつしか「大和の水木か、水木の大和か」と呼ばれ、大和を代表する研究者、文人としての地位を確立し、昭和13(1938)年6月1日 享年74歳で逝去。
(以上、大和郡山市のhpより)
・何冊もの大福帳と称する分厚い帳面にいろいろな記録を残していること
・いろいろなものを収集したこと
・近鉄の西大寺駅の西の新しい駅名を頼まれて、そのとき咲いていたアヤメからあやめ池駅と名づけられたこと。
・奈良学といわれる奈良に関することは何でも書かれたし、話にも出かけたこと
・伊予松山出身で正岡子規とほぼ同じ頃、松山中学で学び、東京高等師範を卒業、奈良に来たこと
・他からの出身の人によって奈良の良さを見つけ出され、そして多くに奈良の良さを発信されたこと
・大和郡山市豆腐町に長らく住んだこと
・現在の奈良女子大学で教鞭をとられたこと
etc
何とか水木十五堂に光を当てて、顕彰したいと思い至ったこと
現在、大和郡山市では3人目の水木十五堂賞の選出中であることなどわかりやすくお話されました。(上田清市長は、もと郡山高校の先生をされていたので、みごとな授業でした)
大和郡山市の水木十五堂のページです。
→http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/govt/torikumi/jigyou/002904.html
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ソムリエメンバーの目指すところですね。奈良まほろばソムリエの会からこのようなメンバーあるいは奈良ソムリエの会自身が受賞できればいいですね。ちょっとハードルが高いかな。(笑)
投稿: 和兄イ | 2016年9月23日 (金) 11時57分
和兄ィさん、さすがですね。そこまでは考え付きませんでした。
奈良まほろばソムリエの会の目標の方向はそうかもしれませんね。
目標レベルは高いほうが良いですね。
投稿: 鹿鳴人 | 2016年9月23日 (金) 13時47分