伊能忠敬の大和路測量と地図
江戸時代、伊能忠敬は日本全国を歩いて測量したというのは有名な話で、それは海岸線の測量かと思っていたのですが、大和路も測量していたということをはじめて知りました。
先日、奈良ロータリークラブの卓話で、奈良大学の土平 博先生(文学部地理学科准教授、4月から教授)から30分間にわたり興味深くうかがいました。
伊能忠敬は50才を過ぎてから全国を10次にわたり歩いて測量したそうですが、その第6次に、四国・大和路として文化5(1808)年11月28日から12月23日大和路を歩いて測量しています。
そしてさらに第8次で京都から伊賀に行く途中1日だけ興福寺・春日大社を参拝に再度訪れたということです。
そもそも、「大日本沿海輿地全図」として、縮尺により全国を3つに測量した小図、そして8つに測量した中図、そして214枚もの大図があるそうです。
大図は1枚畳1畳分ほどもあり、2010年に奈良大学体育館でその214枚のコピーを並べたそうですが並べきれず、北海道はやむを得ず日本海にずらしてようやく並べたそうです。正確に並べると1辺が50mの長さの体育館が必要だということでした。
資料を頂いたのですが、大和のあたりの測量図です。2013年京都国際地理学会議開催記念の伊能中図(Ino Map)とのことです。
上が北です。
●伊能図とは
伊能図とは19世紀はじめに伊能忠敬の率いる測量隊によって作成された地図の総称です。忠敬は蝦夷地への測量をはじめとして、1800年から1816年まで、日本初の全国測量を実施しました。そじて忠敬の没後、1821年に幕府天文方の手で「大日本沿海輿地全図」として完成されました。
伊能図には縮尺、収録地域、製作時期によって多くの種類があります。縮尺によって、大図・中図・小図の3種類と、その他の少数の図に分類できます。
このうち、大図は実測図で、これを縮小して中図、小図が作られました。
大図作成のための測量は、方位と距離を野帳に記録しながら沿道や街道を進行する方法で行われました。
この記念地図は、東京国立博物館所蔵の中図を、(株)武揚堂が許可を受け複製したものです。(縮尺1:216000)2
大図ではもっと村やお寺が正確に描かれているということです。
第6次の大和路のおおよそのルートは大阪から十三峠を越えて大和に入り、法隆寺から当麻寺まで、そして大和郡山から薬師寺、唐招提寺、西大寺まで、そして秋篠寺を参拝、尼辻あたりから三条通を東へ、われわれの橋本町や餅飯殿町など奈良町の地名もたくさん出てきます。東大寺などを参拝、天理-三輪ー桜井ー飛鳥ー吉野山、戻って、泊瀬、長谷寺から伊勢街道を抜け正月に伊勢神宮を参拝、そして江戸に戻ったということです。
東を上に北を左に向けてみました。
頂いた資料の伊能忠敬の歩いた行程の一部です。
土平先生は大和路の研究もされているようですから、機会があればもっとお話をうかがいたいと思ったことです。
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当時の地名が興味深いですね。
明治22年の町村制の時点では「斎音寺村」「興福院村」「柴村」「青柳村」などは見あたりませんが、21年に「斎音寺」「興福院」の両村が合併して「尼辻村」になっているようです。(現在も自治会として興福院町は残っているらしい。ちなみに興福院は移転して現在地に)
柴村=芝村、青柳村=青野村でしょうか。現在の「西大寺芝町」「青野町」かと思います。
投稿: sarusawa_kame | 2014年2月 8日 (土) 10時53分
sarusawa kameさん。コメントありがとうございます。よく読めましたね。地名は大事ですね。
そして奈良の場合わりあい、いろいろな字や村が残っていると思います。
投稿: 鹿鳴人 | 2014年2月 8日 (土) 11時57分