
左上、五劫院の門。右上、10間四方のりっぱな本堂です。
梅雨の合間に、奈良市北御門町の「思惟山 五劫院」を訪ねました。東大寺の龍松院公慶上人のお墓があるということを聞いていたですが、五劫院にはお葬式以外なかなか訪ねる機会がありませんでした。
今回最初訪ねたときには、公慶上人のお墓の場所を見つけることが出来ませんでした。
ご住職の渡辺良憲師に場所などをうかがい再び日をあらためて訪れました。そしてご住職に由来などのパンフレットをいただきました。

「鎌倉期東大寺を再興された大勧進職 俊乗坊重源上人が当寺を開山される。
五劫院縁起によると、重源上人が宋へ渡られ、浄土教高祖善導大師の御作、五劫思惟阿弥陀佛を請来され、道俗男女済度利生の為、東大寺北門に一堂を建立し本尊としておまつりされたのが五劫院の創始である。(中略)
当寺は大伴氏伴寺跡の伴墓に重源上人を、寺内墓所に江戸期東大寺中興大勧進職公慶上人をおまつり申し上げ、華厳宗東大寺の墓所的性格を持つと共に、東大寺念仏門を守り、近降の浄土念仏信仰をあつめている」
ご住職に教えていただいたのですが、公慶上人の五輪塔のお墓はお寺の境内の北東の奥にありました。
公慶上人について、東大寺hpの公慶上人像の説明より。
公慶上人(1648~1705)は大仏殿および大仏の江戸再興にその生涯をかけた僧であり、東大寺では鎌倉時代の俊乗房重源に次ぐ、第二の中興開山といわれる。彼は十三歳の時、東大寺大喜院で得度し、雨に打たれる露座の大仏を見て大仏殿再建の志を立てたという。貞享元年(1684)三十七歳の時、江戸幕府に大仏殿再興および諸国勧進を願上し、翌二年から勧進を開始した。貞享三年(1686)から始まった大仏の修復は六年を要し、元禄五年(1692)開眼供養が行われた(四十五歳)。さらに大勧進公慶は大仏殿再興に尽力し、宝永二年(1705)閏四月に大仏殿の上棟式を執行したが、三カ月後の七月十二日江戸で病にかかり、工事半ばで示寂した。享年五十八歳。没後、公慶上人の偉業を伝えるため、遺弟の公盛によって本像が造立され、翌三年(1706)五月、龍松院勧進所の御影堂に奉られた。ちなみに大仏殿の落慶は没後四年の宝永六年(1709)であった。
(公慶上人のお墓)
渡辺住職にいただいた資料によりますと、
公慶上人のお墓は弟子の公盛上人が建てられたそうです。公盛上人のお墓は公慶上人の東隣に一回り小さく建っていました。公慶上人のあとの勧進職として若くして引き継いで大仏殿の中門など境内の再興に尽くされたということです。
(公盛上人のお墓)
そしてまた重源上人が開山であるという碑(写真下)がありました。

有名な、重要文化財の木造五劫思惟阿弥陀佛坐像は8月に拝見できるということでした。
また、万葉歌碑が本堂の前にありました。

水沫なすもろき命もたく縄の千尋にもがと願ひ暮らしつ
山上憶良(巻5の902)
伊藤博先生の訳
水の泡にも似たもろくはかない命ではあるものの楮(こうぞ)のつなのように千尋の長さほどもあってほしいと願いながら、今日もまた一日を送り過ごしてしまった。
奈良の市井の檀家寺には歴史があることを感じる五劫院でした。
そこで重源上人のお墓をつづいてお参りにいくことにしました。(その様子は次回に)
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