先日「奈良美術をつくった工人たち」という講演を、奈良ホテルで早稲田大学文学部教授の大橋一章先生から聞く機会がありました。
奈良美術というのは大正時代、会津八一先生が言われはじめたことばで、1300年の仏教寺院、仏像、建物など、飛鳥から天平時代をいうそうです。
明治5年から正倉院など文化財調査がはじまり、11年に東京に多くの文化財が運ばれたそうです。明治17年フェノロサ・岡倉天心が法隆寺夢殿を調査し秘仏の救世観音を公開しました。
そもそもインドで生まれた仏教は、中国へ伝来しましたが、高度な国から高度な国への移動は、慎重に進められ、漢字と言う文字を持っていた中国は経典を漢字に翻訳しました。のちに朝鮮、日本へ伝わりましたが、文字を持っていなかった朝鮮、日本は漢字のままうつしました。当初、日本へ3年交代で8回、文字を教えるために中国から日本へ派遣されたそうです。ようやくその後、577年はじめて造仏工ひとり、造寺工ひとりがやってきて、日本の多くの若い人たちに技術を教えたのち、587年飛鳥寺が発願され、1つずつお寺が作られていきました。大阪の四天王寺、百済大寺(のち平城京にうつり大安寺に)、川原寺、薬師寺とつくられていきました。
なかでも興福寺は藤原不比等がつくった特別のお寺です。4キロ四方の平城京、その東に1キロ四方の外京(げきょう)をつくりました。外京にある興福寺のあるところは、高台であり見晴らしもよく、地盤も固くすばらしいところです。
興福寺は、東、中、西と3つの金堂を持ちそれぞれ丈六の本尊をもちました。西金堂(今は現存しない)に釈迦像と脇像、四天王をもち八部衆らをもちました。
その八部衆のひとりが、阿修羅像であり、この春以来たいへんな人気ですが、あの表情がすばらしいのではないでしょうか。人間の顔は内面、性格、心理状態、思想などをあらわし、絵や仏像で表現するのがたいへんむつかしいのですが、見事につくられた最初の仏像ではないでしょうか。
工人の最後の仕上げ、日本では「仕上げ」ということを大切にします。仕上げという言葉は、そのままでは外国語ではありません。当時の木の表面は、やりがんな、で仕上げられています。
そして芸術作品では権威的な品格とかではなく、気品が大切です。
すばらしい奈良美術にかこまれた奈良の人たちはぜひ、こころがけて奈良の美術を鑑賞してもらいたいと思います、と結ばれました。
追記、講演で、伝世古ということばをはじめて聞きました。検索するとちょうど大橋先生の対談が出てきました。
参考までにhttp://www.enhan.waseda.ac.jp/tokushu/tokushu02.html
新聞は様子を伝える、奈良新聞から。
最近のコメント